展覧会『原杏奈個展「mui」』を鑑賞しての備忘録
Alt_Mediumにて、2023年4月28日~5月3日。
絵画21点で構成される、原杏奈の個展。
冒頭には「ium」と題された作品(158mm×227mm)が並ぶ。白い画面に青や緑で表わされるのは、動き出して形が崩れる水滴や、あるいは俯瞰したいくつもの開いた傘のように見えるイメージである。くっきりした輪郭によって、その内側の濃淡や叢が引き立てられている。途中、3×3で9つ並べられた、一辺30cmの正方形の画面のうち、《river》と題された作品4点には、カーヴを描く高速道路(や橋脚)を仰視したものや、トンネルを構成する列柱が、《pool》と題された作品2点にはダム(の水面)らしき景観が、《stream》と題された作品2点では用水路が、《fall》には大量の水が放出される場面が、それぞれ取り上げられている。これらの作品を見ることで、具体的な光景をモティーフとしていることが看取される。
イメージは時間軸の上にも、まるで時間から離脱し、変化の外にあるかのような対象を作り出す。それは瞬時にして生み出される。イメージは無時間的である。ところが時間のなかに散乱する光のきらめきの効果なしに、視覚への光の変化と様々な効果なしにイメージはありえなかった。交叉が世界の肉のうちにあり、肉そのものであるとすれば、その肉とは時間の様態そのものである。それなら時間とはこの肉そのものだろうか。むしろこの肉のイメージというべきだろうか。「時間イメージ」(ドゥルーズ)といわれるほどに、時間もまた、あるイメージなのだ。(宇野邦一『非有機的生』講談社〔講談社選書メチエ〕/2023/p.223)
水の流れを描く作品群、とりわけ《fall》は「時間軸の上にも、まるで時間から離脱し、変化の外にあるかのような対象を作り出」している。その無時間的なイメージは、運動を感じるからこそ生じるものである。用水やダムの堤防を描くのも、高速道路などの橋脚を描くのも、動かずに支える存在を通じて、却って水や自動車の流れに意識を向けさせる意図が窺える。
(略)しかし、実体とはどういうことなのだろうか。それを「化」の側から見れば、「化」の運動速度が遅くなった状態であり、ある程度の恒常性と定常性を有した事態にすぎない。わたしたちは、自分がはかることのできるスケールに「化」を封じ込めて、実体と称しているのだ。
そうであれば、わたしたちのはかるスケールを変更したらどうなるだろうか。たとえば、鳥の声を聴くのにテープの速度を変えた武満徹のように。そのとき、より速い速度によって構成されている「化」を捉えることができることだろう。それはよりミクロなレベル(たとえば分子)での運動を捉えることでもある。そうしてはじめて、ある実体的なあり方というものは、変化し続ける運動が偶々ある方向に整序されたことで成立しているものであることが理解できるだろう。逆から言えば、変化し続ける運動の方向をわずかに変えることで、実体的なあり方もまた根本的に変容しうるのだ。(中島隆博『荘子の哲学』講談社〔講談社学術文庫〕/2022/p.202-203)
作家は、「スピードを上げ、めまぐるしく流れるように変化を続ける周囲や社会に、それでも変わることのない二重の風景を見出す」(本展ステートメントより)ことを狙い、本展には「mui」を冠している。"mui"は無為を含意する。だが、無為を不変(「変わることのない」)とは捉えていないだろう。走る列車の中に置かれた物が動かないように見えて列車と同速度で移動しているように、変化が生じているからこそ、不変に見える。作家が無為≒不変を描き出すのに、「それでも変わることのない二重の風景」と述べるのは、「変化し続ける運動が偶々ある方向に整序」することで不変を捉えようとしているからではないか。展示室の一番奥に飾られた、風景に重ねられる円形のパターンは「二重の風景」による無為、すなわち変動による不変をより鮮明に打ち出している。