可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『ジュリア(s)』

映画『ジュリア(s)』を鑑賞しての備忘録
2022年製作のフランス映画。
120分。
監督は、オリビエ・トレイナー(Olivier Treiner)。
脚本は、カミーユ・トレイナー(Camille Treiner)とオリビエ・トレイナー(Olivier Treiner)。
撮影は、ロラン・タンジ(Laurent Tangy)。
美術は、フィリップ・シフル(Philippe Chiffre)。
衣装は、マリ=ロール・ラッソン(Marie-Laure Lasson)。
編集は、バレリー・ドゥセーヌ(Valérie Deseine)。
音楽は、ラファエル・トレイナー(Raphaël Treiner)。
原題は、"Le Tourbillon de la vie"。

 

わずかに海水に浸った砂浜を幼女が足裏の感触を確かめるように歩いている。驚いた海鳥が一斉に飛び立つのに目を遣る。彼女は波に向かって歩き始める。
人生は偶然の連鎖だと思う人もいれば、運命は最初から決まっていると考える人もいる。何が運命を決めるのか。行動か、選択か、出遭う人か。歳を重ねるほど確信が持てなくなって、時には最も重要な決断は知らぬ間に人生それ自体が行っているのではと思ってしまう。人生には小さな偶然をきっかけとする分岐点があって、別の道に進んだ自分たちに思いを馳せてみる。彼女たちにとって果たして私は誇れる存在だろうか。
1989年11月10日。アムステルダム。音楽院の授業の休憩時間に、ジュリア・フェイマン(Lou de Laâge)のピアノに友人達が集まっている。ナタン・ジロー(Aliocha Schneider)がラジオで英語のニュースを聴き、フランス語に訳して伝えている。群衆がベルリンの壁に集まって壁を乗り越えたり壊したりしているという。教授(Caroline Bourg)が休憩は終わりだと自席に戻るように促し、ラジオを切るように言う。ナタンがベルリンの壁が崩壊したと興奮して訴えるが教授は聴く耳を持たない。行こうよ。ジュリアが友人たちに向かって言い出す。どこに? ベルリンに。壁の上に座ってみたくない? ジュリアの大胆な提案に友人たちは驚き顔を見合わせる。23小節から、教授が授業を再開する。
ジュリアと相部屋のエミリー(Esther Garrel)が寮の自室に戻る。どうしちゃったの、親が知ったら大変じゃない? 父親が絶対許さないでしょ。だったら行かなきゃいいわ。ナタンのせい? 違うわ。彼はそういう目で見てるけど。彼に好印象を当たるためにわざわざベルリンに行く必要なんてないわ。どうかな。この手を見てよ。ベッドに坐ったジュリアがエミリーに手相を見せる。運命線。無いね。結婚線。猫だけ、男無し。生命線。とっても長い、退屈で長い人生。この短い線が見える? チャンス、運命を変える。ベルリンに行かないと。あなたが世界的なピアニストになることは確実でしょ。私たちは学位を手にして出て行くだけだよ。ピアノ漬けの毎日、どこにも行けない。友達はあなただけ。檻からは出られないんだよ。ねえねえ、行こうよ。来て、まず両親に電話する。待って、いい考えとは思えないけど。今6時でしょ、電話しないと親が心配するの。親を騙すつもり? 2人はエントランスホールに備え付けの電話に向かう。
ジュリアがエミリーを前に電話する。ママ? なんでこんなに遅いの? 心配してるの分かってるでしょう? ジュリアの母アナ(Isabelle Carré)が娘を咎める。ベルリンがニュースになっているけど、何か問題はないの? ベルリンは遠いわ、アムステルダムじゃ何も起こらないよ。自転車に乗ってる人が転ぶくらい。大丈夫なのね? ええ。何かあったら連絡するのよ。ごめん、夕食を取りに行かないと。ジュリアとエミリーが笑いながら電話を終えると、これで自由だと2人が階段を駆け上がる。
夜。消灯時間を過ぎて真っ暗な寮。自室のドアから外の様子を窺うジュリア。誰もいない。ジュリアとエミリーが部屋を抜け出す。ベッドの下にジュリアのパスポートが落ちているのに気付かずに。急ごう! 2人はエレベーターに乗り込む。
その晩、私は自分の人生を支配していると感じた。今思えば、あの瞬間が私にとって決定的だった。わずか数秒で全てが変わってしまったのだ。
夜。消灯時間を過ぎて真っ暗な寮。自室のドアから通路を窺うジュリア。誰もいない。エミリーがジュリアに続いて部屋を出ようとして何かを踏む。ジュリアのパスポートだった。エミリーがジュリアにパスポートを手渡す。急ごう! 2人は階段を駆け下りる。
エレベーターでジュリアは自分のバッグを探る。しまった、パスポートがない! 本当に? バッグの中味を取り出してみるが見つからない。部屋に忘れたんだ。どうする? バスが出ちゃう。走って追いつくから。必ず来るよね? 追いつくから。分かった。エミリーはエレベーターを出ると寮の玄関を駆け出していく。エミリーはボタンを押し、エレベーターで上階へ。
階段を駆け下りるジュリアとエミリーは寮の玄関を駆け出していく。
ジュリアがエレベーターで自室の階に到着して扉が開くと、教授が立っていた。あなたは何をしてるの?
ジュリアがバス停に掛けていく友人達を窓越しに見ている。
ジュリアが友人たちとバスに駆け込むと、すぐにバスが出発する。

 

1989年11月10日。アムステルダム。音楽院でピアノを専攻するジュリア・フェイマン(Lou de Laâge)は、休憩時間にギター専攻のナタン・ジロー(Aliocha Schneider)から、ベルリンの壁の崩壊についてラジオで実況中継しているのを教えられる。ジュリアはベルリンに行こうと言い出す。ピアノ工房を営む父ピエール(Grégory Gadebois)の下で厳格に育てられ、将来は世界的ピアニストと衆目の一致するジュリアの提案に仲間たちは驚く。ジュリアは母アナ(Isabelle Carré)に電話を入れてアリバイ工作すると、夜、同室のエミリー(Esther Garrel)とともに人目を忍んで寮の部屋を抜け出し、階段を駆け下りる。バスに飛び乗ったジュリアたちは一路ベルリンへ。壁に登ったり、壁を壊したりと熱狂する群衆の中、ジュリアは傍に置かれていたピアノを演奏し、人々の耳目を引く。新聞でベルリンで演奏するジュリアの写真を目にしたピエールは激昂し、帰宅したジュリアを平手打ちする。ジュリアは壁で知り合ったベルリンのマルクスシェーンベルク(Markus Gläser)を頼る。
…同室のエミリー(Esther Garrel)とともに人目を忍んで寮の部屋を抜け出したが、ジュリアはエレベーターでパスポートが無いことに気付く。追いつくからとエミリーに先に行かせたジュリアは、エレベーターを降りたところで教授(Caroline Bourg)に見咎められ、ベルリンに行くことは叶わなかった。ジュリアは今まで通りピアノの練習に明け暮れ、ピアニスト人生を決定づける大きなコンクールを迎える。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

ジュリアはピアノ職人の父ピエールの下、ピアニストとなるためにピアノ漬けの毎日を送ってきた。その甲斐あって、アムステルダム音楽院の同期も、ジュリアが世界的ピアニストになることは間違いないと踏んでいた。だが鳥籠の鳥のような生活に耐えがたくなったジュリアはベルリンの壁の崩壊のニュースを耳にして、ベルリンに行くことを仲間たちに提案する。
ジュリアは同室の友人エミリーとともに寮を抜け出そうとして、パスポートを忘れかける。偶々暗い部屋でエミリーが踏んづけて気付き、ジュリアはベルリンの壁の崩壊という歴史的な場面に立ち会うことができる。だが、ジュリアの壁でのピアノの演奏はニュースになり、激昂した父に平手打ちされたエミリーは、反発して壁で知り合ったマルクスを頼ってベルリンに出奔してしまう。
エミリーがパスポートを踏まず、探しに戻ろうとしたジュリアは、教授に見つかり、ベルリンの壁に向かうことが叶わなかった。
パスポートを持つジュリアは階段を下り、パスポートを持たないジュリアはエレベーターに乗ることで、2人のジュリアが示される。
ジュリアがバッグからパスポートを落としてベッドの下に落としてしまうこと、あるいはエミリーが偶然パスポートを踏むこと、偶然が起きるか起きないかという分岐点、それが積み重なって、様々なジュリアが登場することになる。
ベルリンの壁はジュリアの感じていた鬱屈を象徴し、その壁の崩壊は、ジュリアをピアノの世界から解き放つ。壁を訪れたジュリアが打ち壊された壁の破片を手にするのは、自分を束縛から解放し、自分の人生を生きる武器を手に入れたことを示す。逆に、パスポートを忘れて教授に見咎められたジュリアは寮の部屋のガラス窓越しに仲間が出かけるのを眺める。その窓(寮)は檻のイメージとして描かれている。枝分かれする樹木など、象徴的シーンが要所で挿入されている。
ジュリアがピアニストになれるかどうかをコンクールの勝敗で明示することで、人生における勝敗を分かりやすく描く。それと同時に、成功・失敗が必ずしも人生の幸不幸を決定する要因でないことを描き出す。
リニアに進む映像の中で、分岐における別の人生を表現する際には改めて同じシーンを繰り返す。分岐が増えるために後半になるに連れて複雑になるが、髪や衣装の色などで視覚的に別のジュリアであることが示されるなど、分かりやすくするための工夫が凝らされている。また、ジュリアを乗せた車が通った後に別のジュリアを乗せた車が通るなど、複数のジュリアを同じ場所で交錯させたり、あるいは誕生日を祝うケーキを介して別のジュリアが目の前にしているケーキへと飛んだりと、分岐点に戻らずに接続するパターンも組み合わされている。

 たとえば、1981年の〔引用者補記:クシシュトフ・キェシロフスキ監督の〕映画『偶然』を観てみよう。この映画の主人公ヴィテクは、「ポズナン暴動」として知られている大規模なデモ――最終的には政府が軍隊を動員して鎮圧を図ったために流血の惨事になる――があったその日、1956年6月27日に生まれた。生後すぐに母親が亡くなったため、彼は、父に育てられた。父の希望で、ヴィテクはウッチの大学で医学を学んでいた。大学の同級生オルガが、恋人である。そこに父の訃報が届いたため、ヴィテクは医学への意欲を失ってしまう。大学には休学の届けを出して、ワルシャワに旅立つことを決める。列車がまさに発車しつつあるホームに、ヴィテクが全速力で走って入ってくる。この後、ヴィテクの人生の3つの異なるヴァージョンが上映される。
 第1のヴァージョンは、ヴィテクが列車に乗ることができた場合。すでに発車していた列車にかろうじて追いつき、乗車することができたヴィテクは、列車の中で知り合った男の仲介で、党中央評議会で働くことになる。さらに彼は、かつての恋人チュシュカと再会し、愛し合うようになった。だが、ヴィテクは反体制的な地下出版にたずさわっていたチュシュカのことを、そうとは意図することなく、結果的に党中央に密告したことになってしまい、チュシュカはヴィテクから去っていく。彼は、フランス行きの命令を受けるが、出発の直前、「連帯」が指導する大規模なストライキポーランド全土で発生し、結局、旅立たないことになる。
 第2のヴァージョンは、駅の警備員に制止されて、列車に乗れなかった場合である。警備員を投げ飛ばしてしまったヴィテクは、罰として奉仕労働を科された。奉仕労働の中で知り合った男に紹介されて、こちらのヴィテクは、反体制活動に――地下出版の仕事に――従事することになる。ヴィテクは、幼い頃に別れた旧友と再会し、彼の姉ヴェルカと愛し合うようになった。キリスト教に入信したヴィテクは、YMCAの集会に参加するためにフランスに行こうとするが、逮捕歴のせいでパスポートを得られず、旅行を断念sする。ヴェルカとの情交の最中に、地下出版の作業員が当局によって逮捕されたため、ヴィテクは仲間から裏切り者と疑われることになる。ちょうどのそとき、ポーランド全土のストライキの発生が報道される。
 第3のヴァージョンはで、ヴィテクは、最も平穏で幸せな生活を送る。駅のホームに駆け込むと、そこには恋人のオルガがいた。結局、彼は、列車には乗り遅れ、大学に復学し、卒業後にオルガと結婚した。娘が生まれ、ヴィテクは、医者として働きはじめた。彼は、息子の反体制活動によって失脚が確実になった学部長から、リビアでの講義の仕事を委託される。この大仕事を喜んでヴィテクは引き受ける。しかし、この仕事ために乗った飛行機は、離陸直後に爆発し、墜落する。
 この映画が表現していることは、まずは、ほんのわずかな違い、どちらにもなりうるような偶然の微細な差異によって、まったく異なる3つの人生がありえた、ということだ。別の角度から見直せば、偶然性の作用によって振り分けられている、人生のそれぞれのヴァージョンは、他の3つの可能性の上に成り立っているものとして体験されるということでもある。
 だとえば、第3のエピソードで、ヴィテクは、平凡な家族の夫にして父であり、政治とは距離をとり、順調に仕事をこなし昇進しつつある。しかし、このシンプルな人生は直接に得られるものではなく、媒介された結果である。つまり、この人生は、2つの極端な可能性――党に奉仕する活動と反体制的な出版活動――の否定によって得られているのだ。これら両極的な可能性が排除されている限りにおいて、平穏な生活(第3のエピソード)が成り立っているということを考えれば、排除された選択肢は、現実の人生に――「それらではない」という否定的な仕方で――介入しているのであって、言わば、幽霊のようにとり憑いている、と解釈することができる。「幽霊」は、「抑圧されたものの回帰」の様式で、現実の人生のもとにやってくるのだ。第3のエピソードだけをみれば、それは、普通に生きていれば確実に得られるきわめて堅実な人生に見えるが、排除されている2つの人生を背景にしたときには、ほんのちょっとしたことで崩壊しうる危うい人生だということがわかる。第3のエピソードの結末の飛行機の爆発は、排除され現実にんらなかった他なる可能性が、現実の人生に刻印を残していることの証拠のようなものである。党のための活動をしていたとしても、また反体制活動をしていたとしても、ヴィテクは飛行機に乗ることができなかったはずだからだ。つまり、これら2つのヴァージョンの排除が作用して、ヴィテクは飛行機事故の道へと向かったのである。この突然の事故が、堅実なものに見えている人生が――この事故の瞬間だけではなく常にずっと――脆弱なものだったことを知らしめる。
 映画『偶然』をめぐる以上の解釈から、次のようにアイデアを導くことができるのではないか。物語の形式をもった人生の経路の偶然性は、「他なる可能性が幽霊のように現実の――そして偶然的な――人生に潜在的に随伴しており、それらが現実の人生と相互作用をもったり、現実の人生に介入したりしている」ということを含意している、と。(略)
 (略)
 現実の人生の展開が偶有性の様相を帯びているということは、他のありえた可能性が、見てきたように、「抑圧されたものの回帰」の形式で現実にたち現れ、幽霊のようにとり憑くことである。このとき、同時に、次のような逆転が生ずるのではないか。この偶然の現実が、他なる可能性の否定を前提にしてこそ成り立っているのだとすれば、後者の現実化していなかった可能性の方がより本来的であり、現実よりもいっそう、私にとって真実だということになる。(略)
 ここで、まことに正確に、ヘーゲル弁証法でいうところの「否定の否定」の論理が作用している。「否定の否定」とは、否定されていることが、実際には、もとの「肯定されているもの」よりもいっそう徹底的に肯定されているという意味である。現実の人生の物語が立ち現われる上で否定された可能性の方が、現実よりも深い真実を含んでいると感じられるとき、まさに「否定の否定」の論理が働いている。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇Ⅰ 〈主体〉の誕生』講談社/2021/p.535-540)

『ジュリア(s)』においても「ほんのわずかな違い、どちらにもなりうるような偶然の微細な差異によって、まったく異なる」ジュリアの「人生がありえた」ことが示される。そして、「人生のそれぞれのヴァージョンは、他の」ジュリアの「可能性の上に成り立っている」ことが分かる。そして、「現実化していなかった可能性の方がより本来的であり、現実よりもいっそう」ジュリアにとって「真実だということになる」。