可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 川名晴郎個展『近未来』

展覧会『川名晴郎「近未来」』を鑑賞しての備忘録
銀座 蔦屋書店(インフォメーションカウンター前)にて、2023年5月2日~18日。

川名晴郎の絵画6点を展観。

《昔の雪》(710mm×620mm)は、白い雪が舞う中、ル・コルビュジエの「近代建築の五原則」を彷彿とさせる直方体の鉄筋コンクリート建築3棟が右手前から左奥へ並び、空中廊下や球体建築(の支持柱)で接続されている光景を表す。端が僅かに覗くだけの手前の建物にはウチワサボテンが、中央の建物には明度の異なる緑色のタイルを並べたモザイク状のデザインのプール、奥の建物にはウチワサボテンと白い雲を浮かべた青空を描いた屏風状の構造物が「屋上庭園」を構成している。朱色の柱で持ち上げられた(「ピロティ」)奥の建物の隅に男性が腰掛けている。彼の存在によって、スケールが縮小され、建築物は遊具ないし模型へと転じてしまう。屏風(screen)はディスプレイ(screen)であり、モザイク状のタイルは画素であり、支柱や空中歩廊は配線であり、電子回路やコンピューターのメタファーであり、舞う雪もスクリーンセーバーに見えてくる。
模型にしろコンピュータグラフィックスにしろ、現実とは異なる仮定の世界の表現である。「昔の雪」と題したのは、(接続法の活用を喪失し)仮定の世界を過去形で語る――換言すれば、過去とは現実とは異なる世界という点で非現実の世界と等しいという発想の――英語的想像力の発露でもあるかもしれない。英語はインターネットとともに世界を覆っている。作者が描き入れた「グローブ(地球儀)状の構築物」が象徴するのは「円環知」としてのインターネットであろう。

 一方、「球」という形態も1939年のペリスフィアに続き、意味あいこそ違うが1964年のニューヨーク万博では「ユニスフィア」と名付けられた大きな地球儀状の構築物となって姿を現す。いや1900年のパリ万博にもすでに巨大な地球儀が登場していた。これも万国博覧会という主旨からいえば、「グローバリズム」の象徴として造られたものに相違ないが、それでもこうした球体構築物の頻出に18世紀のいわゆるヴィジオネールの建築家の球体建築、あるいはグローバル・イメージの流行と重ね合わせてみないわけにはいかない。
 18世紀フランスに現れた一種、奇妙な建築を目指した幾人かの建築家を今日では総称して〈ヴィジオネール(幻視)〉の建築家と呼ぶ。メガロマニアックな建築を夢想し「ニュートン記念堂」という球状の建築物を構想したエティエンヌ=ルイ・ブレー。ロココの装飾の時代に簡潔な、それこそ1960年代のモダーン・デザインのような球体の「畑番の家」のデッサンを残したクロード=ニコラ・ルドゥー。そしてエジプトからインド、中国までさまざまな様式を混淆した建築を夢想したジャン=ジャック・ルクー。あるいは地球儀のような建築のスケッチを残したローラン・ボードワイエル。これらの奇想的な建築家は実際にその奇妙な建築を残すことも少なく、次第に忘れ去れていったが、1930年代にエミール・カウフマンらの研究によって再評価がなされた。(略)
 18世紀に夢想された一群の球体建築を分析し、そこにグローブ(地球儀)状の構築物の流行があったことを結びつけたのは三宅理一氏の研究『エピキュリアンたちの首都』だった。コペルニクスケプラーらの地動説や大航海時代以降のヨーロッパ世界の拡張によって17世紀にには地球儀や天球儀の制作が盛んになり、18世紀のニュート主義の流行はそれをさらに加速させ、地球の形態を模した建築物やモニュメントを流行させてゆく。『エピキュリアンたちの首都』に書かれたこの経緯は、きわめてスリリングなものだ。かつて高山宏氏が、その諸著作で西欧18世紀のキーワードとして読み解いた「啓蒙」「百科全書」「円環知」「博物学」「ピクチャレスク」といった言葉のすべてが、この地球儀形態の流行にも関わってくるのである。高山氏もいうように「世界を識る」という行為がこの世紀を特徴づけるものであり、それは造形物の発想にも発現されていったわけである。(長澤均『パスト・フューチュラマ 20世紀モダーン・エイジの欲望とかたち』フィルムアート社/2000/ p.50-52)

また、「近未来」を冠した展示において、連続するモダニズム建築を配したのは、「近代の先にもそれに連なる近代というシステムしか見いだせない時代の美意識」と言えよう。

 50年代SF的な造形が「レトロ・フューチャー」と名付けられ(SF評論家の聖咲奇氏は「パスト・フューチャー」と呼ぶが、このほうがよほど正しい理解の仕方だろう)、80年代のSFにはモードのレトロが溢れる。90年代のSFはレトロではないにしても未来的なモードを提示しようとはしない。『JM』(94)にしても『ガタカ』(97)にしても『マトリックス』(99)にしても必ず現在同様のスーツ姿が登場する。それは「近代様式=モダニズム」をこえる美学としてミニマルな制服が(これとてモダニズムにほかならかったのだが)夢想されたかつてのSFモードが破産し、近代の先にもそれに連なる近代というシステムしか見いだせない時代の美意識を象徴しているのではないか。
 90年代SF絵以外といってもその傾向はさまざまだが、ある突出した様式をいうならば、それは「スタイリッシュ」ということだろう。現実のモードがますますラフになるにつれ、スタイリッシュであるということだけで逆接的にSF足り得てしまう時代なのである。『ガタカ』に登場する人物のスーツ姿、後ろ手に歩くスタイルはこうした逆接的な未来の証明だろう。ある種、貴族的なスタイルを演出するだけで、このあまりにもラフになりすぎた現実から離脱できるのだ。
 かつて30年代から50年代のSFが現実の都市や建築に学び、流線型やらなにやらのさまざまな未来像をSF独自の様式にしていったようなことは、もはやないだろう。未来像そのものが多元的なものとなってしまった今日では、ひとつの様式が来るべきある「時間」を予見することは不可能なのだ。そういう意味ではSFは終らないにしてもSF的造形とは、すでに「パスト・フューチャー(過ぎ去った未来)」でしかないのかもしれない。(長澤均『パスト・フューチュラマ 20世紀モダーン・エイジの欲望とかたち』フィルムアート社/2000/ p.199-201)

表題作《近未来》(700mm×800mm)では、雲の浮かぶ青空を背景に、球体、ウチワサボテンの他、廃車や、壁際に佇む男性や塵取りに堪ったゴミを捨てる女性などが配される。画面全体を格子が覆うのは、全てがデジタル空間の中での出来事であることを表すのだろう。《昔の雪》の「屏風(screen)』の中で全ては展開するのである。立ち尽くす人物はアヴァターであろう。とりわけ象徴的なのは、タイヤを失った廃車が、空飛ぶ未来の乗り物に重ねられていることであろう。未来は出来の悪い過去の模倣でしか無いのだ。ひょっとしたら高度経済成長期の祭典の粗悪なレプリカ(TOKYO2020)の揶揄なのかもしれない。それならば、女性(カイロ大学を首席で卒業?)が塵取りに掃き寄せたものは神宮外苑で伐採する樹木ということになる。