展覧会『新津保建秀展「消え入りそうなほど 細かくて 微妙な」』を鑑賞しての備忘録
ミヅマアートギャラリーにて、2023年4月19日~5月20日。
新津保建秀の写真展。
逢魔が時のピンク色の雲が真っ暗な地面の水溜まりに映るカラー写真《水鏡》は、マルセル・デュシャンのインスタレーション《遺作》を連想させた。水鏡が周囲の土や草で切り取られている様は《遺作》に設置されたドアの覗き穴に、水溜まり(=穴)は《遺作》のドアの向こうで横たわる裸体女性の陰部に比せられる。女性の手にするランプは、傍に展示されている使い捨てライターの着火シーンのスローモーション動画《Phantom》が代替する。これらの作品がギャラリーの主展示室の脇にある小さな空間に設置されていることで、恰も《遺作》の扉を開いて作品の中に入り込んだかのような感覚を味わわせる。
穴を覗く行為はそのままファインダーを覗く行為であり、ドアの開披はシャッターを切る行為に相当する。いずれも(かつての)写真機のメタファーとなる動作である。なおかつ、そこには、覗く穴から開かれた入口へという穴の拡大が潜んでいる。拡大とは、無限小への接近に等しい。それは「質的で潜在的な連続性」を有する「根源的な実在」を知覚するための「微分」という動作であろう。
ベルクソンは、「内包」的な存在者を次のように規定します。それは、「外延」的なもの、つまり相互外在的に表象される空間的なものに対置される、内部浸透する連続的な時間のあり方だというのです。外延的な存在者は、量的な計画が可能な現実的(actuel)なものです。それに対し、内包的な存在者とは質的で明確な表象化が不可能である潜在的(virtuel)なものです。ベルクソン初期においては、それはさしあたり心的事象という方向から捉えられますが、それ自身が、一般的な生命存在論の試みであったことはいうまでもありません。質的で潜在的な連続性の方が、表象的な現実を支える根源的な実在なのです。それが「純粋持続」です。
西田〔引用者註:西田幾多郎〕において、実在をありのままに捉えようとする「純粋経験」は、こうしたベルクソンとほぼ同様なものを描きだしています。もちろん西田においては、主観客観問題の克服という論点が、ベルクソンより全面に出ています。しかし、ベルクソンの述べる「純粋持続」が、たんなる客観性に対する心的な主観性を主張するものではなく、むしろ客観性と主観性とが共に産出される前主観的な領野を示すものであるならば、それが西田の議論と重なることは確かでしょう。
そのうえ、西田が「純粋経験」を論じるときの焦点は、やはりその分断不可能な「連続性」にあります。ベルクソンのメロディーの例と類比的に、西田は運動や音楽の演奏を取り上げます。そこで西田にベルクソンにも、有機的な連関性というテーマが重要になります。つまり、個別的な要素(「現実化」された表象)は、全体性を志向する有機的な統一性(「潜在的」な関係性)の方から、それが何であるかを規定されるのです。それは、ベルクソン的にいえば、「分割」すれば「その本性」を変えるものとして、分割不可能な連続体ということになります。
さて、こうした「連続体」である「内包」を把握するための述語は、「潜在性」と「差異」です。基本的にはベルクソンに由来するこの言葉は、ドゥルーズの思考によって存在論的に洗練されました。しかし、「潜在性」と「差異」というロジックは、内包的な存在論を構想する際にそもそも不可欠なものです。それは西田においても、同様であると考えられます。
「内包」的な「連続体」を捉えるには、どうすればよいのでしょうか。表象的に対象化されたものによってなされます。「連続的」でそうした実在そのものを捉えることは、ベルクソンにおいては「潜在性」によってなされます。「連続的」で有機的な連関は、それ自身は表現されえません。その「連続性」はあくまでも「潜在的」なものです。そして、そのような実在が表象になっていく過程は、つまりは「内包」性が「外延」的な事象となるあり方は、こうした「潜在性」が「現実化」することと描かれます。流れの全体は、無限の連関性をもつために、対象としては知覚されません。それが、外延的な対象として知覚されるためには、こうした潜在的なものの現実化が、つまりは無限なものの有限化が必要になります。
こうした「潜在的」なものの「現実化」は、「潜在的」なものに固有の存在様態である「差異」を繰り拡げること、つまりは「差異」(différence)の分化(différenciation)として描かれます。それは、潜在的な無限として折りたたまれている差異を、空間的に押し拡げていくこととして捉えられるのです。そこで、「連続体」として潜在的に無限であるもの、〔引用者補記:潜在的に無限であるもの「が」か?〕有限化されるのです。ここでは、差異という述語がそのまま「微分」を意味することにも注目すべきです。「潜在的」な「差異」が「現実化」することとは、無限の方向性を含み込む実在を、有限なものへと微分化することなのです。「微分」(と、そうした差異の働きの向こう側に想定される全体の「積分」(intégration)の作業)は、ベルクソンからドゥルーズへと続く生の存在論にとって中心的な意味をもっています。
私は西田の議論において、こうした「内包」性の存在論が共有されている点に強く関心をもちます。西田において「潜在性」は、『善の研究』における「含蓄的」あるいは「潜在的統一作用」という言葉に反映されています。さらに私は、西田が『善の研究』で「差別相」や(有機物のような)「分化」と述べる部分に、ほぼベルクソン(‐ドゥルーズ)の「差異」の「分化」という発想と重なるものがあると考えます。確かにこの当時の西田は、こうした「内包」性を、知覚的な有機性のモデルによって描きがちです。しかし、こうした潜在的な全体を論じることが知覚には収まらないことは、西田の以降の展開を見ても自明です。
そして、それ以上に、こうした生の哲学との接近を感じさせるのは、西田の「自覚」論ですが、無限な行為からの自己限定として語られることは、まさに「潜在的」な「連続性」の有限かそのものの議論と重なります(「潜在的全体が己自身を発展する過程」)。自己のなかに自己を映すという「自覚」の所作とは、無限の「連続性」としてある実在から、知覚可能な「私」と「対象」とを切りとってくる行為そのものなのです。
ここでは『自覚に於ける直観と反省』において、西田が「微分」に言及していることが興味深いです。そこでの西田の「微分」の着想は、新カント派のコーエンに由来するものであり、直接的にベルクソンへと繋がるものではありません。しかし、そこでの「微分」の主題化は、「内包」の存在論が受け入れざるを得ないロジックを強く提示しているとおもえます。コーエン的な主題は、直ちに「内包」に関わります。そして、そうした「内包」的な「連続体」から、有限な存在者が現出する事態は、まさに「微分」のモデルで語られます。
有限なる曲線は無限小なる点より生ずると考へることができる、dxをxの根源として考へることがきるのである……我々の有限なる意識の背後に横たはれる無意識はxに対するdxの如く考へることができないであらうか。(『西田幾多郎全集 第二巻』岩波書店、八六頁)
(檜垣立哉『日本近代思想論 技術・科学・生命』青土社/2022/p.230-233)
周囲をコンクリートで固められた武蔵国国分寺の礎石のモノクローム写真《国分寺跡》と、それに並列された、崩落してオレンジのセンターラインと左右の白の路側帯が緑に覆われた中に垂直に落ちるカラー写真《橋》。柱や道の切断は不可分の流れの切断であり、「無限の方向性を含み込む実在を、有限なものへと微分化」している。恰もステレオグラムのように微妙に異なる焚き火の写真《焚き火1》・《焚き火2》を左右に並べるのは正に「差異」の強調であろう。森の中から突き出た樹冠が犬の顔に見える《偽陽性:犬》は、樹木の生長により消え去る「犬の顔」が見えた――それは使い捨てライターの着火の動画《Phantom》のように――スパンを変えて見れば「瞬間」の切り取りに他ならない。「無限の『連続性』としてある実在から、知覚可能な『私』と『対象』とを切りとってくる行為」、それが無限小へと向かう――消え入りそうなほど 細かくて 微妙な――写真なのだ。