可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 小谷野夏木個展『岐路』

展覧会『小谷野夏木「岐路」』を鑑賞しての備忘録
藍画廊にて、2023年5月15日~20日

いずれも紙に鉛筆と水彩絵具による絵画「岐路」シリーズ32点で構成される、小谷野夏木の個展。

 おまえが今まで見た中でコイン投げで失くした一番でかいものはなんだ?
 コイン投げで? 
 コイン投げで。
 さあ。この辺の人間はあんまりコイン投げの賭けをやらないから。それよりもなんか決めるときですね。
 あんたが見た中で一番でかいことを決めたのはなんだ?
 さあ。
 シガーはポケットから25セント硬貨を出して頭上の蛍光灯の青みがかった光の中へくるくる回転させながら弾きあげた。それを受け止めて腕の血のにじんだ布を巻いた部分のすぐ上に叩きつけた。裏か表か、とシガーは言った。
 裏か表か?
 そうだ。
 こりゃなんです?
 いいからどっちだ。
 何を賭けるのかわからないとねえ。
 それがわかったらどうだというんだ? 店主は初めてシガーの眼を見た。ラピスラズリのように青かった。光っていると同時に完全に不透明だ。濡れた石のように。さあどっちか言え、とシガーは言った。おれが代わりに言うわけにはいかないからな。それじゃあフェアじゃない。正しいことでもない。さあどっちだ。
 あたしゃ何も賭けちゃいないですよ。
 いや賭けたんだ。おまえは生まれたときから賭けつづけてきたんだ。自分で知らなかっただけだ。(コーマック・マッカーシー〔黒原敏行〕『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』早川書房〔ハヤカワepi文庫〕/2023/p.69-71)

全て岐路をテーマにした絵画には、木の枝や根、鹿の角や蜻蛉・蝶の翅脈など分岐のイメージが見られる。それら分岐が実在するものとして提示されているのに対し、鏡像のように一角で接した小屋の向かい合う入口――内部の暗闇へと通じる――や、左右逆向きにして重ね合わせた鳥は、コイン投げのように選択を迫られる場面としての岐路であり、一方を選択するとき、他方は実在しない可能性としての幽霊であることを示唆するようだ。
ところで、分岐するためには同一であることが前提となる。幹から伸びゆく枝や、小屋の入口から立ち上る煙は、同根であることを表す。また、とりわけ、反対に向かって重なり合う鳥を囲む円は、繭を連想させる。

 繭は技術のパラダイムであるばかりではなく、端的にいって世界内存在のパラダイムでもある。昆虫――繭の巨匠、トランスフォーメーション(変態)の偉大なデミウルゴス――はわたしたちの目を逃れてきた。わたしたちはこう信じ込まされてきたのだ。繭とは、特定の個体の生において用いられる、その種に固有の、不完全な、儚い道具なのだと。むしろ反対に、繭はあらゆる生きものの超越論的形態とみなされねばならない。生きるものが自身と結びつくところであれば、さまざまな生きものが惑星と結びつくところであれば、繭はどこにでも存在する。あらゆる自我は1つの繭である。
 繭とは第一に、そしてなによりもまず、わたしたちの生が1つの解剖学的同一性にのみ割り当てられるなどありえないことのまったき証拠である。生は繭において一見したところ両立不可能な2つの身体、2つの相貌、2つの同一性のあいだに位置づけられる。繭とは、これら同一性の両立可能性の構築である。それは、さまざまな相貌や身体を締め出すのではなく増殖させることで個体が生きているということの証拠なのだ。
 (略)
 繭とは、1つの環境、1つの世界が、ただ幾何学が適用されるにとどまらず、幾何学と形態とが一から再発明されるような実験室であることの、生きたデモンストレーション(実演)である。
 繭は自己意識の形態にしてパラダイムである。生きものが各自みずからと結んでいる関係は、それゆえもはや再認識に属するものではない。自己意識はもはや、生きものがそこに見出され、みずからの相貌を再認識し、自分自身と合致するような場ではない。それは私たちの各々が、みずからを決定的に変態させ、それまで生きてきた世界とは完全に異なる世界へと移動させるさまざまな力に服従する空間なのである。(略)
 繭とは、メタモルフォーゼがなによりもまず、わたしたちが自分自身と結ぶ関係であるという証拠である。そしてそれは個体の水準に限らない。わたしたちの個別的形態、人間存在、チョウやサル、バクテリアやウチワサボテンの実、シャコやコナラという存在は、1つの繭である。これがダーウィン進化論の最も根本的な意味なのだ。生のあらゆる形態は1つの繭である。それはつまり、その結果が未来においてのみ見られるようなメタモルフォーゼの連続した懐胎なのである。
 (略)
 地球上でさまざまな種が織りなす生は、1つの絶え間ないメタモルフォーゼである、メタモルフォーゼは種どうしを分離し分断する境界線である。これが意味するのは、わたしたちが生のさまざまな形態と結ぶ関係がつねにメタモルフォーゼ的であるということだ。つまり、わたしたちは他のものに生成変化することができるだろうし、そうすることができるはずだ。メタモルフォーゼとは、すべての生きものを結び付けると同時に分断する類縁関係なのである。
 (略)
 さまざまな繭であることを体験するためにわたしたちは食事すら必要としない。生きることを始めれば十分である。地上に存在しているあらゆるもの、目にうつるあらゆるものが、ガイアという身体のメタモルフォーゼ、その肉をテーマとした変奏、その息吹の錬金術的な変化であるということは、あまりに頻繁に忘れられている。わたしたちは地球の石のメタモルフォーゼ、その生きた変奏である。あらゆるものが地球に由来する――それは価値を欠いた、ニヒリズムキリスト教にいおける意味でではない。なぜなら地球とはその内部で全形態が生み出される巨大な繭だからだ。そしてその逆に、わたしたちが生と呼んでいるものは、どんな形態のもとであれ、ガイアが新たな在り方を発明する繭でしかない。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.88-91)

鳥と植物の根、花と羊の頭部、シオマネキのハサミと枝といった組み合わせの作品は、繭が「世界内存在のパラダイム」であり、「あらゆる生きものの超越論的形態」であることを、あるいは、円・三角形・四角形・直方体その他の幾何学形と動植物との組み合わせは、繭が「幾何学と形態とが一から再発明されるような実験室」であることを示す。そして、「あらゆるものが地球に由来する」以上、「わたしたちが生と呼んでいるものは、どんな形態のもとであれ、ガイアが新たな在り方を発明する繭でしかない」。ガイアという繭では、生成変化(≒分岐)が絶えず行われ、「すべての生きもの」が、「結び付け」られつつ「分断」されている。繭が「一見したところ両立不可能な2つの身体、2つの相貌、2つの同一性」の「両立可能性の構築」であるなら、まさに繭は分岐であり、コイン投げであり、自由意志であり、ひいては自我であることにも成り得よう。「生まれたときから賭けつづけてきた」のが自我であり、ただそのことを「知らなかっただけ」なのだ。岐路とは、自己であり、生命なのである。