可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 伊阪柊・中村壮志二人展『デンドロカカリヤからの手紙』

展覧会『伊阪柊+中村壮志「デンドロカカリヤからの手紙」』を鑑賞しての備忘録
ソノ アイダ#新有楽町にて、2023年5月12日~21日。

伊阪柊と中村壮志とのユニット「MANTLE」が制作した、展示会場付近をモデルとした地図とそこに立ち並ぶビル群が、歩き回る人物たちに触れられ樹木に姿を変えられ、再び触れられて樹木がビルに戻る、コンピューターグラフィクスによる映像作品《Simulation#3》に、それぞれがポートランド滞在中に制作した作品を併せて展示する、伊阪柊と中村壮志との二人展。

中村壮志《road to shining》は、ポートランドで、作家が映画『シャイニング(The Shining)』に登場するホテルへ向かう車窓風景に、人形などで再現した映画のシーンや現地の歴史的エピソードを組み合わせた映像作品。高速道路が公園になるなど自然を再生するための施策が街作りに取り入れられてきたこと、西部開拓時代に中国原産のナンバンアカアズキが金の重さを量る分銅代わりに使われたことなどが紹介される。ホテルに到着した作家は、西部開拓時代の「西へ!」とは、何処を基準にしていたのかと問いかけ、映像は終る。
伊阪柊《The Sprout 目=芽》は、碁盤目状の街区を持つポートランドにおいて、格子の向きが途中で変わっている点に着目し、北極星から方位磁石による地磁気の測定へと方位決定方法の変化があったとの都市伝説的な解説を紹介する映像と関連資料とで構成される。そして、作家は、地磁気の変動や岩石に固定された地磁気の影響を指摘する。
中村壮志《road to shining》と伊阪柊《The Sprout 目=芽》とはともに、あらゆる事象の相対的な性格や、それがゆえの反転可能性に着目している。
ところで、本展のタイトルは、安部公房の短編小説「デンドロカカリヤ」を下敷きにしている。「デンドロカカリヤ」の冒頭では、植物「デンドロカカリヤ」になることが最初に宣言されているコモン君のある気付きから始まる。

 ある日、コモン君は何気なく路端の石を蹴とばしてみた。春先、路は黒々と湿っていた。石は、石炭殻のようにひからびたこぶし大の目立たぬものだったが、何故蹴ってみようなどという気になったのだろう。ふと、その一見あたりまえなことが、如何にも奇妙に思われはじめた。(安部公房「デンドロカカリヤ」安部公房『水中都市・デンドロカカリヤ』新潮社〔新潮文庫〕/1973/p.8)

西へ向かうとか、北の向きであるとか、「一見あたりまえなこと」である。だがそれが「如何にも奇妙に思われはじめ」る。何が基準であるのか、その基準は絶対的なものなのか。フロイトによれば、「無気味なものとは、一度抑圧を経て、ふたたび戻ってきた『馴れ親しんだもの』」(フロイト高橋義孝〕「無気味なもの」フロイト高橋義孝他〕『フロイト著作集 第3巻』人文書院/1969/p.350)であるというが、「一見あたりまえなことが、如何にも奇妙に思われはじめ」る際の感覚も無気味と評することができるだろうか。《road to shining》において映画『シャイニング』に登場する瓜二つの少女が人形を使って表されているのは、「無気味な死の前触れ」であるドッペルゲンンゲル((フロイト高橋義孝〕「無気味なもの」フロイト高橋義孝他〕『フロイト著作集 第3巻』人文書院/1969/p.341-342)のメタファーを提示するためであろう。そして、フロイトの「無気味なもの」は、そこに言及されるダンテなどを介して、神曲をモティーフとする安部公房の「デンドロカカリヤ」へと通じるのである。

 分かるだろう。誰だってそんな憶えがあるにちがいない。おもわずあたりをみまわして、他の人もそんなことをするものかどうか、そっと確かめてみたりする。確証がなくても、なに、誰だって知らず知らずのうちにしているのさと、後味の悪い独り合点をしたとたん、(略)(安部公房「デンドロカカリヤ」安部公房『水中都市・デンドロカカリヤ』新潮社〔新潮文庫〕/1973/p.8)

コモン君の行為規範は「他の人もそんなことをするものかどうか」に置かれている。「一見あたりまえなこと」とは、目に見えて周囲で行われていることである。すなわち、コモン君の内面には基準は存在しない。従って、コモン君の行為は常に反転可能性を有している。それが、裏返る顔である。

 それから、あたりが真暗になった。その暗がりの中に、夜汽車の窓にうつったような、自分の顔が見えた。むろん錯覚さ。なんの錯覚かって、コモン君の顔は裏返しになっていたんだ。あわてて顔をはぎとり、もとに戻した。瞬間、すべてはもとどおりになっていた。(安部公房「デンドロカカリヤ」安部公房『水中都市・デンドロカカリヤ』新潮社〔新潮文庫〕/1973/p.9)

《The Sprout 目=芽》では、北の方位がかつて北極星により定められていたことに言及がある。中国では北極星とは皇帝のことであり、それを模倣した日本の王朝も天子は南面するものとされた。王政復古の後、膨張政策の末破綻した帝国日本は、「太陽(=アトミック・サンシャイン)」を司る、それまでの敵国に、恰も地磁気が反転するかのように目を向けた。コモン君とは、「太陽」に「目」を向ける植物(The Sprout)であり、 ありふれた(common)日本人――「デンドロカカリヤ」執筆時より下るが、「戦後」日本を代表する顔の1つに「風見鶏」と呼ばれた政治家がいたことも示唆的である――を指すことは明白である。
本展の中心となる、伊阪柊と中村壮志とのユニット「MANTLE」の映像作品《Simulation#3》では、人々との接触により、ビルが樹木に、逆に樹木がビルに容易に変転する姿が描き出されている。コモン君たちが集まって形成されるコミュニティは高層ビル群にもジャングルにも成る。コモン君やコミュニティにとってはどちらであろうと構わないのだ。日本橋を覆うように高速道路を架け、高速道路が文化遺産となると破壊して、新たに地下に高速道路を建設するように天地は反転する。『方丈記』にある通り、「玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそ」い、「或はこぞ破れてことしは造り」、「昔ありし家はまれ」なのだ。スクラップアンドビルドだけは揺るがないのである。緑をシンボルカラーにした首都の首長も、樹木を「伐採」して緑を保全すると強弁して憚らないが、かの御仁を選んだのもコモン君である。

 (略)つまり、地獄に落ちた人間は、地獄にあっても、決して罪の意識を持たないものなのだ。ここには罰だけがあって罪はない。してみると、コモン君は判断せざるを得なかったわけさ。つまり俺は知らずに、既に自殺してしまっていたのかもしれないとね。(安部公房「デンドロカカリヤ」安部公房『水中都市・デンドロカカリヤ』新潮社〔新潮文庫〕/1973/p.26)