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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 大河原愛個展『静けさの内に留まる羊は、いかにして温もりを手に入れたか』

展覧会『大河原愛展「静けさの内に留まる羊は、いかにして温もりを手に入れたか」』を鑑賞しての備忘録
新宿高島屋10階美術画廊にて、2023年5月10日~22日。

女性の身体をモティーフとした、モノクロームを基調に水色とピンクとが挿される絵画群で構成される、大河原愛の個展。

《Between Mirrors 5》は、茶色いボードの素地を塗り残した画面の中央に、明るい水色の縦の線で水鏡を表し、その中に裸体の女性を描く。膝頭より下は画面から切れ、両腕は表現されていない。何より目を惹くのは、阿修羅像を思わせる、横に重なり並ぶ3つの顔だ。画題の"Mirrors"と複数の鏡があることから、複数の鏡に複数の顔(仮面=persona)が映り込むのだろう。他方で(左の乳房が複数見える点を除き)身体は1つに表されているのは分人主義的な複数の人格(persona)を意味するのだろう。
《ただひとつのままで》の漆黒の画面には、その下部に燃え立つ炎のようなイメージがピンクを挿した白で表され、「炎」の上部に目を瞑る少女の顔がモノクロームで輝くように浮かび上がる。少女の顔は画面中央から左右に恰も鏡に映るように2つ描かれている。
「深層のフォルム」シリーズ3点では、いずれもモノクロームの画面に裸体の女性を描く。《深層のフォルム》では膝を抱えるように蹲る女性を側面から、《深層のフォルム 2》と《深層のフォルム 3》では横座りする女性を背面から、それぞれ捉えている(《深層のフォルム 3》の女性の方が身体を横に曲げ、">"と"<"の組み合わせになっている)。《Between Mirrors 5》や《ただひとつのままで》とは異なって女性の顔が見えない姿勢だが、いずれの作品も画面中央で線対称に画面が構成され、鏡のイメージを喚起する点では共通する。

「深層の森」シリーズは、女性の頭部から肩甲骨辺りにかけての背面をモノクロームの画面に表している。《深層の森 9》や《深層の森 10》のように白地の作品と、《深層の森 11》の黒地のものがあるが、いずれもやや頭を前に倒し、頸椎が浮き出た背が、宙空に浮き出している点で共通する。背面を見せるのは、顔(仮面=人格)の背後を示すことで、「表」に直接現れない深層心理を示すためだ。その意図は、同じく女性の背を金色の画面に表した絵画《内なる森に目を澄まして 2》で「内なる森」と変奏され、なおかつ「目を澄まして」と視覚を比喩に封じ感知することが謳われていることからも明白である。また、「深層の森」の女性が前傾姿勢を示すのは、自らの意識下にある森へと分け入って降りて行くためだろう。無意識の森は、力強く太い描線で、左右に弧を描いて塗りたくることで表され、画面の奥へと広がり、得体が知れない。
《Recalling Places 51》、《鼓膜に残る静寂を優しさに変えるすべについて 6》、《ただ静かに降り積もる 5》を始めとして、ピンクのリボンで目隠しをした少女のイメージが繰り返し登場する。目隠しには、視覚を排して、目に見えないもの――「深層の森」を踏まえれば、1つには深層心理が挙げられる――へと注意を向けさせる意図が明瞭である。パブロ・ピカソの描いたミノタウロスを導く少女を踏まえるなら、目隠しの少女は欲望に目の眩んだ男性(≒ミノタウロス)の立場に身を置いてみせている(理解しようと努めている)と捉えられよう。さらに、目隠しの少女を作家と同一視して、同じモティーフを繰り返し表現するパブロ・ピカソ(≒ミノタウロス)に同化しようとしているとの解釈は飛躍が過ぎようか。

ところで、《ただ静かに降り積もる 7》では、目隠しをした少女の顔の傍に翼を拡げた鳥を添えることで、表層(目に見えること)に縛られず「見る」自由が強調されている。鳥のように、個々の作品ではなく、展覧会を俯瞰して見るよう鑑賞者に促す。繰り返し登場する目隠しの少女、あるいは背面を見せる女性などは多数の鏡に映ることで増幅されたイメージ群であり、展覧会は「鏡(=絵画)」に溢れるミラーハウス(鏡の迷路)に比せられていることに気が付く。そして、アリスのように鏡の国に迷い込んだ鑑賞者は、これが作家の見る夢か自分の見る夢かと自問することになる。