可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『波紋』

映画『波紋』を鑑賞しての備忘録
2023年製作の日本映画。
120分。
監督・脚本は、荻上直子
撮影は、山本英夫
照明は、小野晃。
録音は、清水雄一郎。
美術は、安宅紀史。
衣装は、宮本まさ江
衣装(現場)は、村田野恵
ヘアメイクは、須田理恵。
VFXは、大萩真司と佐伯真哉。
音響効果は、中村佳央。
編集は、普嶋信一。
音楽は、井出博子。

 

東京郊外の住宅街。寝室のカーテンの隙間から明け方の弱い光が射し込む。須藤依子(筒井真理子)が目を開けると、目の前には隣で鼾を掻いて眠る夫・須藤修(光石研)の足がある。依子は夫とベッドを共有しながら、頭と足を逆に寝ているのだ。依子は寝室を出てリヴィング・ルームへ向かう。カーテンを開けると、色取り取りの花が庭いっぱいに設けられた花壇で咲き誇っている。
スーパー・マルオカ。入口から開店を待つ人々の列が伸びる。店員が客を迎え入れると、客は我先に飲料のコーナーに殺到する。目当ては1人2本までとされた2リットル入りの水のペットボトルだ。
須藤家のリヴィング・ルーム。テレビでは福島第一原子力発電所の事故がレヴェル7に分類されたことを報じている。依子が洗濯物を畳む傍らで、カウチに腰を降ろした息子の須藤拓哉(磯村勇斗)がスマートフォンをいじっている。ただいま。マスクをした修が帰宅する。修はすぐさまテレビの音量を上げて、原発事故のニュースに見入る。拓哉がネットに上がっている水道水の放射能汚染について口にすると、修は全部デマだと言下に否定する。依子が沖縄に移住した一家を話題にすると、修はじたばたしても始まらないだろうと言う。依子は2人に水道水を飲まないように、雨にも濡れないようにと念を押す。
依子が台所に立ち、ペットボトルの水を止めて水道水に変えて粥を炊く。粥が出来るまでの間に紫キャベツを切るなど自分たちの夕飯の支度をする。夫はリヴィング・ルームから庭へ出る。
依子は寝たきりの義父(花王おさむ)の口にスプーンで粥を運んでやる。
雷鳴が轟く。マスクを着けた修は花壇の花を眺め、染付の鉢のメダカを見る。水を撒こうとホースを手にした修が思案する。
義父が依子の胸に手を伸ばす。依子は非難する目つきで義父の手を摑むとベッドに降ろさせる。
台所で依子がカウチの拓哉に夕食が出来たことを告げ、父親を呼ぶように頼む。依子は食卓に料理を並べ、瓶かららっきょう漬けを取り出す。庭に向かって父を呼ぼうとした息子だが、そこに父の姿は無かった。いないよ。拓哉は食卓に着き、らっきょうに手を伸ばす。依子が庭に出ると、延ばされたホースが地面に放置され、水は流れっぱなしだった。依子はホースを取り上げ立ち尽くす。メダカの鉢に雨粒が落ち始める。
ガラスの球体、蝋燭、鏡餅、それに「緑命水」のラベルのある瓶が並べられた白い祭壇。その脇に設置されたモニターに、一滴の水が落ちる映像が映し出される。「緑命会」の「勉強会」。和室に集まった十数名の信徒たちを前に、支部長の橋本昌子(キムラ緑子)がにこやかに説法を行っている。私たち一人一人はこの小さな一雫のようなものです。でもこの一雫が無ければ波は決して起こりません。生きていれば辛いことも苦しいことも沢山有りますが、憎しみや恨みなど濁った魂はそこに停滞し、浄化されることはないのです。依子も微笑みながらときに頷いて橋本の話を聞いている。緑命水の尊い一滴は私たちの淀んだ心を綺麗に洗い流してくれる作用があります。私たち一人一人の良い行いは波紋の如く確実に広く世界に伝わっていきます。皆さん、切磋琢磨、致しましょう! 信徒たちも切磋琢磨致しましょうとお互いに顔を見合わせながら繰り返す。橋本が祭壇に向いて手を合わせると、信徒たちも合掌する。内なる潜在エナジーを育み、精魂の次元が上昇するように祈りましょう。大自然のお恵みを森の水の精霊が清らかなる我らの心に宿り給え。皆で祝詞のようなものを唱えると深くお辞儀する。続いて皆が立ち上がり、微妙な振り付けで踊りながら歌う。一滴の水、大海に、世界に拡がる、この想い、信仰あらば、懼れ無し。
須藤家のリヴィング・ダイニング。テレビのあった場所には丸いガラスの球体や燭台を置いた祭壇が設えられて、棚には無数の緑命水の瓶が並んでいる。食卓の灯りだけが点され、隅に依子が一人坐っている。自分だけの食事を前に、依子が緑命水をグラスに注ぐ。内なる潜在エナジーを育み、精魂の次元が上昇するように祈りましょう。大自然のお恵みを森の水の精霊が清らかなる我らの心に宿り給え。祝詞を唱えて緑命水を飲むと、依子は食事を始める。
朝、依子が収集場所にゴミを出し行くと、隣の主婦・渡辺美佐江(安藤玉恵)もちょうどゴミを出すところだった。にこやかに挨拶を交わしてネットにゴミを入れる。お宅の猫がちょくちょく入ってくるみたいなんですけど。本当にうちの猫ですか? 美佐江は冷たく言い放つと、さっさと家に引っ込む。依子が美佐江に冷たい視線を送る。
スーパー・マルオカ。依子がレジ打ちをしていると、別のレジに、要注意の老人(柄本明)が現れる。ここに傷が付いてんだろ。半額にしてくれ。大根を手にした老人が訴える。すぐにお取り替え致します。これでいいから半額にしろ! 身形はいいが自ら商品に傷を付けては半額にするようレジ係を脅すのだ。
自転車に乗って依子が帰宅する。自転車を駐め、門を抜けたところで、通りの角でじっと自分の姿を見る作業員風の男に気が付く。修だった。

 

2011年4月。東京郊外の住宅街。主婦の須藤依子(筒井真理子)は、会社員の夫・須藤修(光石研)と高校生の息子・須藤拓哉(磯村勇斗)とともに、元大学教授の義父(花王おさむ)の家で暮らしている。依子は家事に加え、寝たきりの義父の介護も担っていた。3.11から1ヶ月。福島第一原発事故の評価はレベル7に変更された。放射能汚染を恐れる人々は飲料水の確保に血眼になり、ネットには真偽不明の情報が溢れている。被曝に怯える修は家族を置き去りにして蒸発してしまった。
九州の大学を卒業した拓哉は26歳になり、現地の企業で働いている。義父の最期を見送った依子は、スーパーでレジ打ちのパートをしながらの一人暮らし。依子の支えは、夫の失踪後間もなく入信した宗教団体「緑命会」で、支部長の橋本昌子(キムラ緑子)の勉強会に足繁く通っていた。ある日パートから帰ると、修がひょっこり姿を現わした。父親に線香を上げさせて欲しいと言う。修は庭が枯山水になっていること、居間に祭壇が設けられていること、「緑命水」というラベルの瓶がそこら中に並んでいることに呆れるが、家族を捨てて逃亡した疚しさに加え、病気の治療費を妻に無心する必要があることから低姿勢を貫き、差し支えのあることは口にしない。夫の振るまいに一々腹が立つが、依子は「憎しみや恨みなど濁った魂は」「浄化されることはない」と「緑命水」を飲んだり噴霧したりして祈り、「内なる潜在エナジーを育み、精魂の次元が上昇するよう」「切磋琢磨」する。だが更年期障害に加え夫というストレス源に依子の苦しみは緩和されない。そんな依子を心配した年配の清掃スタッフ水木(木野花)の人生を達観した助言が依子の心を和ませるのだった。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

原発事故というカタストロフが飲み水など生活に不安を生じさせたところに夫の失踪。収入源を失い、高校生の息子と寝たきりの義父を抱えた依子は途方に暮れる。
家族・近親者にも近隣にも頼れる者がいない依子が縋ったのが、憎しみや恨みを遠ざけ前向きに生きることを勧める宗教団体「緑命会」であり、支部長の橋本だった。神道キリスト教に占いを加えたような祭壇に仏教的な合掌、陳腐な歌と踊り、何より顔に微笑みを貼り付けて上辺だけの言葉を吐く薄っぺらい橋本や信者たち。そんなインチキを絵に描いたような宗教に帰依しなければならなかったことこそが依子の窮状を浮き彫りにする。
それでも依子は家事、育児、介護に加えパートの仕事をこなし、義父を看取り、息子に大学を卒業させた。
そこへ利己心の塊である夫がひょっこり帰って来る。追い払っても出て行こうとしない隣の猫にも腹が立つが、気ままに暮らす夫のもたらすストレスは猫の比ではない。夫こそ家庭に巣くう病魔なのだ。
依子は夫という新たなストレス源だけでなく、更年期障害に悩まされていた。そんな依子に職場の清掃スタッフ水木が助言をする。プールで泳いで運動し、サウナで汗を流す。歯に衣着せぬ水木とのざっくばらんな会話て笑う。橋本の助言(単なる霊感商法)と対照的に、依子は気分の軽くなるのを実感する。
依子は、夫や息子に水道水を控えるよう求めながら義父の粥は水道水で炊き、息子が聴覚障害のある女性(津田絵理奈)と交際することに露骨に反対する。依子のネガティヴな面も描かれる。だが、依子は基本的に不満を溜め込んでしまう。それは不満が心の水面に落ちて波立たせるという映像によって表現される。これが『波紋』という題名の由来となっている。メダカを飼う鉢の水に落ちる雨粒の作る波紋、枯山水の箒目など、波紋のが要所で登場するだけでなく、ペットボトル、水道水、雨、(庭で花に水を遣るための)ホースの水、「緑命水」、酒、プールなど『波紋』に関連する水のイメージが繰り返し登場する。
波紋は映像だけではなく、音声によっても表わされている。依子の心の動揺を表わすクラップは、振動であり、やはり心にさざ波を立てる。依子が自分の好きな拍子(クラップ)で踊るとき、心の裡で反響を繰り返す波を外に解き放つことができるだろう。