可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『それでも私は生きていく』

映画『それでも私は生きていく』を鑑賞しての備忘録
2022年製作のフランス・イギリス・ドイツ合作映画。
112分。
監督・脚本は、ミア・ハンセン=ラブ(Mia Hansen-Løve)。
撮影は、ドニ・ルノワール(Denis Lenoir)。
美術は、ミラ・プレリ(Mila Preli)。
衣装は、ジュディット・ドゥ・リュズ(Judith de Luze)。
編集は、マリオン・モニエ(Marion Monnier)。
原題は、"Un beau matin"。

 

パリ。アパルトマンの建ち並ぶ通り。サンドラ・キンスラー(Léa Seydoux)がリュックを背負い、キッシュの入ったビニール袋を手に提げて歩いている。1棟のアパルトマンの門を潜り、中庭を抜け、階段を上る。ドアをノック。今行く、ちょっと待て。サンドラの父ゲオルグ・キンスラー(Pascal Greggory)が応じるが、扉が開く気配が無い。…扉だが、どこにある? 鍵? そう、鍵。鍵は錠の中でしょ。挿したままにしてるじゃない。サンドラが扉越しに伝える。扉はどこだ? 目の前にあるでしょ。鍵は錠に挿さってる。無いぞ、そんなもん。慌てないで。把手に手を伸ばして、それを回して。…ああ、これか、分かった。これでいいか? 回して。そうか、待ってくれ。右に回して。やっとのことで扉が開く。パパ、来たわ。サンドラがゲオルグに挨拶のキスをする。よく来たな。サンドラは目の不自由な父親の腕を支えて歩き、椅子に坐らせる。壁にはいくつもの書棚があり、哲学書や文学書がびっしり並んでいる。調子はどうなの? いい。ちょっと問題はあるがな。お前は? 元気よ。お前が世話をしている人、子供は? リン(Camille Leban Martins)? 担任が病気で1ヶ月休みだって、はしゃいでるわ。厄介に過ぎるということはないのか? 勉強が遅れないといいけど。お前の用件はどうだ? 私の言うことが分かるか? 沢山仕事を抱えてるわ。戦没者追悼式典もあるし。アンネマリー・シュヴァルツェンバッハの書簡の翻訳も終えないと。何だって? アンネマリー・シュヴァルツェンバッハ。スイスの作家。クラウス・マンと親しかった。クラウス・マン、聞いたことがあるな。トーマス・マンの息子よ。お気に入りの作家でしょ。ああ、そうだ、もちろん。サンドラはレンジで暖めたキッシュを父親に出し、切り分けてやる。電話を置いて、食べられないでしょ。ゲオルグは左手に電話を握りしめている。どうかな、ひょっとしたらレイラ(Fejria Deliba)が電話してくるかもしれない。電話が鳴ったら取ればいいわ。うまくいくか自信が無い。うまくいくわ。
学校の敷地の外には多くの児童と迎えに来た保護者たちでごった返している。リンがサンドラに駆け寄り、訴える。公園行っていい? 友達みんないるの。まずはキスしてもらえる? リンが母親の頬に挨拶する。サンドラがリンとともに公園に歩いてく。学校はどうだった? 侵入者警報が鳴った。何なの? テロのときの練習。どんな内容? 地面に伏せるの、警察が来てくれるまでね。すごいわね。ほっとしたわ。
サンドラが公園の木陰にあるベンチに坐り、リンが友人たちと遊んでいるのを眺めている。そこへサッカーボールが転がってくる。サンドラが拾い、駆け寄ってきた少年(Vasco Villaverde)に手渡す。どうも。ジェレミー、ご婦人にちゃんとお礼を言ったか? 少年の父親(Melvil Poupaud)がやって来て息子に注意する。クレマン? サンドラは男が友人であることに気が付いた。ご婦人って言い方はないんじゃない。君はサングラスで顔を隠してるだろ。サンドラがサングラスを外す。息子さん? そう。大きくなったわ。元気なの? ああ。君は? 北極にいるのかと思ったわ。いや、パリにいる。君が想像するほどドラマティックな生活は送ってないね。かかりっきりだった書簡の翻訳は終った? 覚えてたの? アンネマリー・シュヴァルツェンバッハを読んだよ。彼女の本をあげたわね。『約束の地は何処に』だろ? タスマニアから南極へ向かう船で読んだよ。気に入った? 本? ああ、とてもね。探査は? まあね。船酔い以外は。もっと聞きたいわ。電話もくれないじゃないか。あなたが電話してよ。なぜ僕が?。離れていくのがあなただからよ。いつも家を空けてるわけじゃないさ。それが理由じゃ無いだろ。そうよ。
ノルマンディーの海岸で戦没者追悼式典が行われている。軍楽隊によるアメリカ国歌の演奏に合わせて星条旗が掲揚される。サンドラが車椅子に坐る退役軍人(Charles Norman Shay)の英語のスピーチをフランス語に訳している。海岸に到達するのに1時間かかりました。私にとって初めての従軍でした。途中、ドイツ軍が設置した機雷に衝突しました。罠に掛かったのです。上陸用舟艇から退避するよう命じられました。サンドラのフランス語が途切れたのを確認して、車椅子の退役軍人が英語で続ける。Many of the men standing in the front of the boat have been immediately killed. Those who were not shot had to jump into the water, every equipped, many of them drowned. サンドラが再びフランス語に訳して伝える。上陸用舟艇の舳先にいた多くの兵士は即座に銃弾に斃れました。銃撃を免れた兵士は海に飛び込みましたが、皆装備を身に付けたままでしたから、多くが溺死しました。
式典が終了し、参列者がカルヴァドスの蒸留所に移動する。サンドラは車中で同僚の通訳(Xavier Combe)とカルヴァドスに関する英語を確認し合う。原産地名は? "designation of origin"です。蒸留器で再度蒸留するは? "distilled in a still pot"だ。S字状の管は? "Swan's  neck"でしょ。
カルヴァドスの蒸留所。ガイドツアーが行われ、サンドラの同僚が生産者による説明を英語に訳す。The alcohol vapor goes up theough the cap, then through swan's neck, then it reaches the condenser. On contanct with cold, the vapor becomes liquid again... ツアーの後、熱心な退役軍人の質問にサンドラが答える。The less the barel is burnt, ore the aromas of the calvados will be fully fresh, floral...
自宅のベッド。本を読んで寝そべるリンの後ろからサンドラが抱きつく。じゃれ合わない? じゃれ合うなら2人でしなきゃ。本に夢中のリンは母親に生返事。サンドラはリンから離れて娘に服を着るように促す。やらなきゃならなことがたくさんあるの。何? ひいおばあちゃん(Jacqueline Hansen-Løve)の所へ行って、それからおじいさんのところへ行くの。そんなの無理だよ。ちょっとはやる気を見せてくれる? もう随分会ってないでしょ? 喜んでくれるわ。

 

パリ。サンドラ・キンスラー(Léa Seydoux)は、学会での同時通訳や文学関連の翻訳を生業にしている。5年前に夫のジュリアンを失って以来、1人で幼い娘のリン(Camille Leban Martins)を育ててきた。哲学教授だった父ゲオルグ・キンスラー(Pascal Greggory)は妻エロディー(Sarah Le Picard)と別れ一人暮らしをしているが、ベンソン症候群の進行により認知機能障害やコミュニケーション障害が著しい。週に数度の訪問介護に加え、サンドラやゲオルグの恋人レイラ(Fejria Deliba)が見舞っているが、もはや一人暮らしは難しい。しかし、パリ市内の私立の老人ホームは高額で、公立の高齢者介護施設には空きがない。主治医(Margaux Garzaro)の判断で入居先の施設が見つかるまで病院に入院することになった。リンと公園を訪れていたサンドラは偶然、旧友の宇宙化学者のクレマン(Melvil Poupaud)に再会する。サンドラはクレマンと真剣な交際として逢瀬を重ねるが、クレマンは妻子を思い人目を忍んだ。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

サンドラは夫と死別して5年。通訳・翻訳業に勤しむとともに小学生の娘リンを育て、変性疾患に苦しむ父を見舞う。心身共に過酷な状況にあるサンドラは、旧友クレマンと偶然再会し、彼との逢瀬に支えられる。
サンドラの父ゲオルグはベンソン症候群が悪化し、老人ホームに入所することになった。哲学教授をしていたため大量の蔵書があるが、視覚障害のために読書はできない。ゲオルグの元妻エロディーは処分を促すが、サンドラは父の蔵書の散逸を何としても防ぎたい。サンドラにとって、父の蔵書は、患う父――サンドラは誰よりも父を頻繁に見舞っていたにも拘らず、父はもはや娘を十分認識しない。父は3人重要な人がいるとして、自分とレイラを挙げ、あと1人は分からないと言う――よりも父を感じさせてくれる存在だったからだ(幼いリンは祖父ゲオルグが書いたものではない本に母サンドラが父を感じるのか不思議に思う。サンドラは何を選択するかがその人を表わしているのだと説明してやる)。
オルグは入居する介護施設が見つかるまで病院に入院することになるが、病院の都合で転院を余儀なくされる。彼は介護を受ける立場にあり、入院等の措置に合意を求められれば、受け容れざるを得ない。神経変性疾患の進行により、ゲオルグはもはや自らについて多くを語ることはできない。介護を受ける立場の心境を代弁するのは、サンドラの祖母(リンの曾祖母)ジャクリーヌである。憐れみをかけられたらお仕舞いだと、ジャクリーヌは憐れみを受け容れず、自らの存在を示すことをサンドラに訴える。苦境にあっても尊厳を守らなければならないとのジャクリーヌの言葉をサンドラは心に刻んだろう。オマハビーチの戦没者追悼式典における、上陸用舟艇が機雷に接触しながら死地を掻い潜った退役軍人のスピーチ、あるいは、オランジュリー美術館に展示された、視覚を失っていきながらも描き続けたモネの睡蓮の絵もまた、ジャクリーヌのメッセージを補強するものだろう。
カルヴァドスの製造工程における蒸留は翻訳のアナロジーだろうか。ならばカフカの「変身」はどうか。病気になることはどうか。サンドラの不安を感じ取ったリンが片脚を引き摺って歩くのは、「翻訳」ではなかろうか。そして、今日が明日(Morgen)になること(本作のドイツ語題は"An einem schönen Morgen")もまた、蒸留であり、翻訳であり、変身であり、病気でありうる。