可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 ささきなつみ個展『土は外へ』

展覧会『ささきなつみ展「土は外へ」』を鑑賞しての備忘録
太郎平画廊にて、2023年6月2日~24日。

作家が生み出した、全身青緑色で長い耳のような器官がある体長3.3mの人型生物「リンジン」に関する世界をモティーフとした絵画5点及び焼き物で構成される、ささきなつみの個展。なお、展覧会タイトルは「ど(土)はそと(外)へ」と読む。展示は1階ショーウィンドウ、2階、地下1階で行われているが、とりわけ地下の展示空間と作品の世界とが調和している。

ギャラリーの建物の通りに面したガラス壁面の中には、皮を支持体とした《腹の渦》が吊されている。入手時点のままなのか、大まかにL字型の皮の形状を活かし、ハンモックに寝そべるような人物を、角に腰が位置するように配して、白い絵具で描く。目鼻、体内の血管らしき樹状に伸びる線などは、塗り残されて皮の黄土色で表わされている。人物の周囲はやはり白い絵具で描かれた長い茎(あるいは根)が複数、縞模様を作るように覆う。《腹の渦》というタイトルは、人物の腹部に描かれた、膝を抱え、横たわるなどして眠っているらしい、三つ巴状に配された3人の小さな人物に因む。小さな人物たちは葉脈のような細かい線の広がりにより白いシルエットで表現されている。身体の中の渦は宇宙で回転する天体のアナロジーであり、ミクロコスモスとマクロコスモスの照応を象徴する。

 人は古代から人間を食べてきた。太平洋戦争でも人を食べた話が語られている。野上弥生子の『海神丸』や大岡昇平の『野火』、武田泰淳ひかりごけ』、最近では古処誠二の『ルール』など。これらは飢餓のための食人だが、大昔の戦争では、敵のパワーをもらうために捕らえた捕虜を食べた。死者の弔いのためにも食べた。
 (略)
 現代では性的欲望を満たすために食べるという倒錯的行為も現れて、食人は複雑さを増しているが、古代人は、はじめて人を食べたときにあるものを目撃した。それは、人を食べるために体を切り開いたときにはみ出てきた曲がりくねった腸である。
 このとき人々は、この腸のうねりは普段目にしている花やわき水などと同じような形をしているのではないか、われわれの体内に自然と同じ模様があるのではないか、と気づいた(かもしれない)。これが身体のなかの「螺旋」模様の発見だ。
 十七世紀、ドイツのイエズス会に所属していた万能科学者アタナシウス・キルヒャーが描いた木版画には、体内に持つ「螺旋」が象徴的に描かれている。この図自体は、人間に影響を及ぼす環境を神秘主義的見地から見たものである。
 だが、「螺旋」が人間の中心に置かれ、そこから太陽を含めた六惑星が発しているなど、「螺旋」模様の地位は高い。これは「螺旋」のもつサーキュレーションに注目した例だろう。(松田行正『はじまりの物語――デザインの視線』紀伊國屋書店/2007/p.92-95)

また、人物の中に表わされた小さな人物だけでなく、背景の白い茎(あるいは根)・人物の茶の樹形・小さな人物たちの白い葉脈についても、内外と色とを反転させた入れ籠が見られる。それは入れ籠としての宇宙の表現であろう。

 (略)たとえば、「一粒の砂にも世界を見、一輪の野花にも天界を見」たのはウィリアム・ブレイクであったが、この神秘主義詩人の『水晶の部屋』と題された愛すべき詩には、入れ子のテーマが絶妙な形で展開されている。ひとりの少女が詩人をとらえて、彼を水晶の密室に閉じこめ、鍵をかけて封じてしまうのである。

その部屋は きらきら輝く
黄金と真珠と水晶で出来ていた。
そして部屋の中には さらに一つの世界が
一つの美しい月夜がひらけていた。

もう一つのイギリスを 私はそこに見た、
もうひとつのロンドンと ロンドン塔を見た、
もう一つのテームズと 岸辺の丘を見た、
そしてもう一つの快適な、サリーの四阿を見た。

彼女に似た もうひとりの乙女を私は見た。
その身体は透き通って 美しく照り映え
三重の入れ子になって 組み合わさっていた。
おお、何と楽しくも 震えるような不安!

おお、何という微笑! 三重の微笑が
私を満たし、私は焔のように燃えあがった。
身を屈めて その美しい乙女に接吻した、
すると 三重の接吻が返ってきた。

私はいちばん奥の 乙女の形をつかもうと
躍起になって 熱い両手をのばしたが
そのとき 水晶の部屋は砕け散り
泣きわめく赤ん坊のようになってしまった……

 「宇宙は一つの林檎であり、人間はその種子である」と言ったのは十六世紀のパラケルススであったが十七世紀の自由思想家シラノ・ド・ベルジュラックは、その『月世界旅行記』のなかで、新しいコペルニクスの学説に影響された、さらに面白い宇宙論を展開している。シラノによれば、宇宙は一個の林檎であるが、「この林檎もそれ自体一つの宇宙であって、他の部分よりも熱いその種子は、その周囲に地球を維持する熱を放射する太陽である。そして種子のなかの胚は、このように考えれば、種子の成長を促す塩を温め養う、この小世界の小太陽なのである。」シラノにおいて入れ子説的な宇宙論が、さらに精緻に仕上げられたと見ることができる。
 シラノの例によっても分かる通り、十七世紀における入れ子説的な宇宙論の登場には、望遠鏡や顕微鏡の発明と切り離しては考えられないものがあろう。よく知られたパスカルの「無限の空間」に対する畏怖にしても、その点では同様である。パスカルの望遠鏡的、顕微鏡的な世界像の一例を『パンセ』から引用しておこう。
 「人間にもう一つ、驚くべき不可思議を見せたいと思ったら、これまでに知られている最小の生物を探してくるがよい。たとえばだにには、その小さな身体のなかに、さらに比較にならぬほど小さな諸部分がある。すなわち関節のある脚があり、その脚のなかには血管があり、その血管のなかには血があり、その血のなかには液があり、その液のなかには滴があり、その滴のなかには蒸気がある。この最後のものをさらに分析するのは、人間のちからにあまることだろう。かくて、彼の到達した最後の対象が、私たちの問題にしている対象だとしよう。彼はおそらく、これこそ自然のうちで最小のものだと思うだろう。」ところが、そうではないのだとパスカルは言う。「この小さな原子のようなものの内部」に、じつは「新たな深淵」があり、「無数の宇宙」があるのであって、「その宇宙がそれぞれ大空を、遊星を、地球を」有しており、「その地球上には諸動物が、そして最後にはだにが見出される」のである。(渋澤龍彦『新装新版 胡桃の中の世界』河出書房新社河出文庫〕/2007/p.266-269)

地下の展示室に展示された《たくわえる》は、木枠にロープで張った皮を支持体とした絵画である。《腹の渦》に描かれたハンモックに寝そべるような人物と同様の人物の顔が上の方に浮き、そこから白い根を伸ばしている。植物と顔の組み合わせや浮遊感は、オディロン・ルドンの作品を彷彿とさせる。顔から伸びたひげ根型根系の中には毛深い人(型の生物?)と、腰の部分に放射状の殻のある、長い尾(?)を持つ人(型の生物?)が向き合っている。とりわけ後者は蛇状の身体にも見えるため、両者を宇宙の創成に関わった伏羲と女媧とに擬えることもできよう。伏羲と女媧とを蛇の交尾のように互いの身体を巻き付かせて天体とともに描かれることがあるが、本作においても両者が身体を重ねつつある。

《たくわえる》と同じ地下の展示室に飾られた《土の龍》は、いずれも「土龍」と表わされるモグラとミミズとを描く紙本着色作品。画面下部で三重に渦を巻くミミズに、上方からモグラが迫る。但し、鼻先ばかりが目立つ頭部以外の巨大な手や胴は人の身体のようで、周囲を毛に覆われつつ、背中や臀部が浮き立つ。宇宙を象徴する渦状である、蛇身にも通じるミミズは、やはり女媧であって、モグラとして表わされた伏羲とともに宇宙を創成をするのかもしれない。