映画『またヴィンセントは襲われる』を鑑賞しての備忘録
2023年製作のフランス映画。
109分。
監督は、ステファン・カスタン(Stéphan Castang)。
脚本は、マチュー・ナールト(Mathieu Naert)とステファン・カスタン(Stéphan Castang)。
撮影は、マニュエル・ダコス(Manu Dacosse)。
美術は、サミュエル・シャルボノ(Samuel Charbonnot)。
衣装は、シャーロット・リシャール(Charlotte Richard)。
編集は、メロエ・ポイレーヴ(Méloé Poilleve)。
音楽は、ジョン・ケイド(John Kaced)。
原題は、"Vincent doit mourir"。
建築設計会社のオフィスの会議室。一足早くやって来たグラフィック・デザイナーのヴァンサン・ボレル(Karim Leklou)がラップトップに向かって作業していると、隣に坐ったアレックス(Jean-Rémi Chaize)が話しかける。すごく奇妙な夢を見たんだ。自分が広い平原にいてね。母親もいるんだ。ブカブカの服を着てさ。それで森で暮らす鹿の群れ。突然、母親の頭から角が生えるんだ。変だけど、母親に違いない。頭に角があるってこと以外全く同じなんだ。鹿は美しいぞ。鹿を見たことあるか? 夢でも美しかったけどな。何で鹿の角が生えるんだって思うよな。話を聞いた若者(Ulysse Genevrey)が、角は死に対する恐怖の象徴だと口を挟む。ヴァンサンが隣の席の人物に若者が誰か尋ねる。実習生だよ。実習生がいるのか? ああ。名前は? 直接尋ねればいい。君、名前は? ユゴ。ユゴ、私のコーヒーは?。啞然とするユゴ。ヴァンサンが笑う。だがユゴは固まったまま。すまん。
ヴァンサンが自席で作業していると、正面のガラスの向こうにユゴがいるのが目に入り、振り向いたユゴと目が合う。ユゴがヴァンサンのもとにやって来た。ヴァンサンが見詰めると、突然ユゴが手にしたラップトップを振り下ろし、ヴァンサンに何度も叩き付ける。慌てて同僚たちがユゴを取り押さえてヴァンサンから引き離そうとするが、興奮したユゴはヴァンサンに対する敵意を剥き出しにしている。
落ち着いたユゴが水を与えられているのをガラス越しに見ながらオードレ(Karoline Rose Sun)がヴァンサンに言う。能力の限界を超えたのかも。彼はこの仕事には向かないわ。通報の必要はないわ。厄介なことになるだけだから。実習生の受け容れは停止すればいいわ。お望みなら人事部に掛け合うけど。いや、その必要はないよ。頬の怪我を抑えるヴァンサン。ユゴは同僚たちの付き添いで部屋を出て行った。
ヴァンサンが自席に戻る。リオネル(Sébastien Chabane)が心配して大丈夫か声をかける。問題無い。ヴァンサンは周囲からの視線が気になる。ヴァンサンが眼を向けると、皆、眼をそらす。
自転車でアパルトマンに戻るヴァンサン。部屋の鍵を開けようとしたところで、階段からサッカーボールが転がり落ちてくる。上の階のレア(Léa Thia Tue King Yn)とテオ(Théo Thia Tue King Yn)の姉妹がボールを追って降りてくる。こんばんわ。顔はどうしたの? そのとき父親がご飯だと姉妹を呼ぶ。ヴァンサンがボールを蹴り上げてパスする。2人が階段を駆け上がる。
部屋でマッチングアプリを閲覧していたヴァンサンは怪我した顔を自撮りして、人生は過酷だとコメントを付けてアップロードする。
翌朝、いつものようにヴァンサンは自転車で職場に向かう。
ヴァンサンがリオネル(Sébastien Chabane)に店舗の内装のデザインについて3Dシミュレーションを使って説明する。ここから入って、オープンキッチンになっている。壁や床に白と黄色で卵の中身が流れ出すイメージがデザインされていた。卵か? そうだ。レストランだから。店名はニュ-トンだろ? リンゴにするべきじゃないか? でも鶏料理がメインの店なんだ。ラップトップの画面に背後に立ったイヴ(Emmanuel Vérité)の姿が映り、ヴァンサンと目が合う。突然イヴが手にしていたペンでヴァンサンの手首を刺し始める。悲鳴を上げてヴァンサンが逃げ出す。興奮してペンを振り回すイヴは同僚たちに取り押さえられる。
警察署。ヴァンサンとイヴが警察官(Benoît Lambert)から事情聴取を受けている。イヴに襲われました。オフィスにいたとき、彼が何回もペンで突き刺しました、ペンで? そうです。あなたはグラフィック・デザイナー? そうです。イヴが役職を問われ、プロジェクトの管理と答える。経理では? 経理も担当している。グラフィック・デザイナーと経理との間でギクシャクしたことは? 職場に諍いは付き物でしょう。撮影した同僚がいます。ヴァンサンがスマートフォンを警察官に手渡し、ヴァンサンに向かいペンを振り回すイヴの姿を見せる。普段はこんなんじゃありません。あなたの普段を知りませんからね。何も覚えてないんです。皆驚いてます。暴行を振ったのは間違いないですね。なぜそんなことをしたのか分かりません…。泣かないで下さい。理由は分かりませんが、仕事のストレスが原因で我を失うことは誰にでもありうることではありますね。告訴しますか? いえ。恩に着るよ。握手して。2人で一杯やって下さい。
建築設計会社に勤務するグラフィック・デザイナーのヴァンサン・ボレル(Karim Leklou)は仕事中、偶然目が合った実習生のユゴ(Ulysse Genevrey)からラップトップを叩き付けられ顔に怪我をする。ユゴは向いていない仕事に参っていたのだろうと同僚のオードレ(Karoline Rose Sun)から内内に済ませようとの提案をヴァンサンは受け容れる。ところがヴァンサンがリオネル(Sébastien Chabane)と打ち合わせ中、今度はイヴ(Emmanuel Vérité)からペンを手首に何度も突き刺された。警察官(Benoît Lambert)から職場のストレスで我を失うことは誰にでも起こりうることだと言われ、イヴを告訴しないことにした。人事担当のアレックス(Jean-Rémi Chaize)から在宅勤務を求められたヴァンサンは自分に落度はないために不本意だったが渋々承諾する。憂さ晴らしにマッチング・アプリで知り合ったレナ(Léna Dia)と酒場で落ち合うが、そのとき通りにいた浮浪者(Mikael Foisset)と目が合うと、彼はヴァンサンに襲いかかろうと迫った。
(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)
冒頭はコンピューターの幾何学的なパターンが表示された画面が映し出される。それは会議室のヴァンサンのラップトップの画面だった。ヴァンサンは隣に坐ったアレックスから奇妙な夢の話を聞かされる。平原の中にいると母親がいて、鹿の群れがいて、母親の頭から突然角が生えたと言う。ホッブズ的な自然状態において闘争本能が蘇ることを暗示する夢だ。
ヴァンサンの日常は、グラフィック・デザインの仕事は元より、マッチング・アプリを始めプライヴェートでも、コンピューター(からの情報)によって構成されている。コンピュータからの情報が現実を構成するなら、夢からの情報もまた現実を構成しよう。ヴァンサンがアレックスの夢の話を聞いたことによって獲得した邪眼により見詰められたものは、闘争本能を搔き立てられ、暴力を振うに至る。
ヴァンサンはユゴという実習生が職場にいることを知らず、同僚のイヴが何をしているかを把握していない。彼らはヴァンサンがほとんど黙殺している存在だ。その相手に眼を向けたとき、相手は黙殺の報復として殺傷行為に訴える。ヴァンサンの構築した一種の仮想現実が現実となって姿を現わす。
原題は"Vincent doit mourir"(ヴァンサンは死ななければならない)だが、そもそも"On doit mourir"(人は死ななければならない)。その意味では"Memento mori"(死を忘れるな)の変奏と言える。在宅勤務を求められ、トラブルを起こして自宅のあるアパルトマンにいられなくなるのは、失楽園(Le Paradis perdu)であろうか。むしろ職場と自宅を往復する生活からの解放であったのではないか。ヴァンサンは自らの命を守ろうとした結果、恋人を求め、疎遠の父親との関係を修復し、ペットを飼うことになる。死の島への船出する覚悟を決めたとき、日常は輝き出すのだ。
なぜタイトルを「ヴァンサン」ではなく「ヴィンセント」にしたのか、理解に苦しむ。