展覧会『星奈緒展「ひかりと筆跡」』を鑑賞しての備忘録
art Truthにて、2024年5月12日~19日。
女性をモティーフに鉛筆(一部作品でパステル)と水彩絵具とで描かれた絵画で構成される、星奈緒の個展。
《グレーなからだ 3》(273mm×160mm)は、パステルと水彩絵具で俯く女性の横顔が画面いっぱいに表されている。左頬の僅かな隆起の外縁、左眉から鼻梁・左の口角・もみあげの作る線、顔の周囲を取り巻く髪の毛が、渦状に展開するように配されている。そして、髪の毛の描く弧は周囲の光に溶けていくように表されている。その繋がりが「グレーな」髪は、「からだ」という渦状構造のミクロコスモスから周囲に広がる宇宙=マクロコスモスへの接続領域だ。「グレーなからだ」とは、1つの存在が独立して在るのではなく、曖昧な領域(gray area)として在ることを表している。あらゆる存在は必然的に宇宙と一体なのである。
《虹の夢をみる》(410mm×273mm)は、左頬を下にして眠る女性の胸の上部辺りまでの姿を鉛筆と水彩絵具とで捉えた作品。画面の右半分を占めるのが女性の顔(頭部)である。すぐ脇に右手が置かれている。両目から右の手の指の付け根にかけて斜めに光が射す。カーテンから漏れた陽光である。その対照により、部屋全体にはカーテン越しの弱い光で包まれていることが分かる。そして、そのハイライトには、絵具が差されていない。光は描かないことによって表現されているのだ。同様に、《虹の夢をみる》において、虹を目にしているであろう眠る女性が描かれる一方、虹そのものは描かれていない。虹を描かないことによって存在せしめているのである。どこに虹は存在するのかと問われれば、鑑賞者の脳裡において他ならない。ならば、鑑賞者もまた「虹の夢をみ」ていることになろう。
(略)私たちは、ふつう机のような物を現象と見ませんし、虹のような現象をものとも見ませんが、線引きは明確ではないのです。実際、個々の机も個々の虹も一定時間、一定の場所に拡がる現象だと言えます。私たちは、或る瞬間、或る場所で、或る出来事の時間的空間的な部分しか見ていません。この点で、特定の時と場所に現われた虹が、条件の変化で知覚者Aに見えなくなっても、別の条件下にある知覚者Bには見える公共的な風景だと主張することに困難はないのです。
ただし、机と虹のパースペクティヴ的見えの構造は完全に同じとは言えません。机の見えが知覚者の位置や運動ににょって姿、形、大きさを変えるのに対して、虹はそうではないからです。(略)机と違って、虹には前面しかなく、横や裏がないこと、そして虹が太陽と水滴のあいだの領域にしか見えないことです。(略)
虹が三次元の出来事としての拡がりをもつという場合、虹の出来事が生起する場所と虹の知覚が起こっている場所は同じではないという指摘は、デカルトが噴水をモデルにして気象現象を考察したことを想起させます。噴水の場合、私たちが太陽を背にして噴水の側に立ったときしか虹は見えず、噴水の反対側、つまり虹の向こう側に移動すると、今度は太陽が目の前に来て、虹は以前の場所には見えなくなります。しかし、この移動によって虹が消えたのではなく、今度は水が上がったり落ちたりする噴水の中に見えます。これが虹を単純に虹の知覚と同一視できない理由です。こうして心を離れては存在しない夢の実在性と心から独立していると論じうる虹の実在性の距離を認める十分な根拠を示すことができます。そこには存在の階梯があるとしてもよいのではないでしょうか。(松田毅『夢と虹の存在論 身体・時間・現実を生きる』講談社〔講談社選書メチエ〕/2021/p.86-87)
描かないことで存在する光と虹と。《虹の夢をみる》は夢や虹の存在論を主題にしている。「前面しかなく、横や裏がない」虹自体、紙に描かれたイメージ、すなわち絵画のメタファーである。絵画は、ものと現象の区別の曖昧さを訴えるのに最適なメディウムなのだ。作家は光――すなわち視覚――を用いて、世界が曖昧な領域(gray area)であること――全ては繋がっていること――を訴えるのである。