展覧会『土井沙織個展「イコール」』を鑑賞しての備忘録
MEDEL GALLERY SHUにて、2024年5月10日~22日。
パネルに寒冷紗を貼り石膏で固めた支持体に、人や動物らしき存在、あるいは人や動物の混淆したような存在を描き出す、土井沙織の個展。
《旅人》(250mm×200mm)はごるごつとした山吹色の画面に獣の姿を黒いシルエットで表した作品。山吹色は荒涼とした沙漠のようであり、漆黒の獣との対象で光のようでもある。獣は2本の耳をピンと立て、黄色い砂ないし光で覆われた無辺の世界で何かを捉えようとしている。「四つ足(=獣)」であるが、シルエットは前肢と後肢とがそれぞれ揃えられているのか、2本足に見える。それは人の姿が重ねられているせいかもしれない。
どうやら鑑賞者を旅へと誘っているらしいのが、人物埴輪のような存在2人がそれぞれ馬に乗っている姿を描いた《カモンレッツゴー 2》(455mm×680mm)である。人物の顔の穴のような丸い2つの黒い円による目と弧状の口とが微笑んでいるように見えることと、画面を支配するクリーム色とが朗らかな世界を形作っている。前を行く左側の「人物」は左手で馬の首を抑えながら、右手を挙げている。その馬は鼻先を上げ、前肢を宙を搔くように出している。後ろ肢など馬体の後部は見えず、跨がる「人物」が馬の巨大なぬいぐるみ(人形)を使って遊んでいる――あるいは舞台で俳優が馬を演じる――ように見える。後に続く右側の「人物」は馬の背に自らの体を密着させるように跨がっている。馬は鼻先を真下に下げて重みに耐えているようだ。
《ハンズアップ》(680mm×455mm)には、右手を挙げる、頭部左右に耳を立てた、人らしき身体をもつ熊のような存在と、その胴体を摑む巨大な右手とが赤い画面に表される。熊のような存在の頭部は黒いシルエットとなっているが、白い弧として描かれた口により笑っている。身体は人に近く、クリーム色で表されるが、降ろされた左手は熊の手のようだ。笑う「熊」を摑む右手は黒く、その巨大さとともに、マニキュアを塗ったような赤い爪が印象的である。「熊」ではなく「猿」ではあるが、『西遊記』に描かれる釈迦如来の掌から出られなかった孫悟空を連想させる。
《ハンズアップ》に近い主題を扱った作品に《ささやき》(920mm×780mm)がある。向かい合う白い鳩のような鳥2羽が巨大な黒い腕によって抱えられている様が描かれているからである。「鳩」の「白」は赤や黄などで筆を重ねて複雑な表現であるが、レモン型の体など形は単純に表されている。手前側の「鳩」の後ろに、ほぼ同じ大きさのもう1羽の「鳩」がいて、お互いに顔を後ろに向けて見つめ合う。2羽の鳩は赤い花を付けた木とともに巨大な黒い手(腕)によって抱えられている。
《ヨル》(920mm×780mm)には、梟のような頭部と人の身体を持つ正面向きで直立する存在と、その右肩に左手を当てて体を密着させた女とが、真夜中に南中した満月を背に描かれている。赤く照らし出された空は夕空のようで、「ヨル」を「夜」と解さなければ――例えば「寄る」と解すれば――、「満月」は沈もうとしている(地平線に寄る)太陽にも見える。「満月」を背にした「存在」も「人」も顔は目だけ表して黒く塗り潰され、一部が重なることによって、2人がぴったりと寄り添う姿が強調される。2人を取り囲む木のシルエットは、満月が世界を煌々と照らし出すのを妨げて、ふたりだけを隔絶させている。
《ヨル》と近いテーマを扱うものと考えられるのが、本展の表題作《イコール》(1140mm×1520mm)である。《ヨル》と異なり、満月(あるいは太陽)は描かれないが、その代わり背景の明るい赤が鮮烈である。その眩しい赤と対照的に羊らしき動物を抱き締める女とが黒いシルエットで表される。女と羊の目シルエットの中で爛々と輝く。《ヨル》において「2人」を世界から隔絶させた木の代わりを務めるのが、《イコール》の左右に配された、それぞれ馬のようで馬でない、狛犬のような獣(狛(こま)は馬ではないが、音としては駒(こま)(=馬)に通じる)を描いた《番人 L》(600mm×600mm)と《番人 R》(600mm×600mm)とである。
《ヨル》と《イコール》・《番人 L》・《番人 R》とは同主題を扱っていると考えて良いのではないか。すなわち、満月は太陽であり、夜は昼であり、なべて存在は等しいものとして提示されているのである。
植民地主義とは、世俗世界の地図に恣意的な線を引き、そこに矯正された「支配」と「被支配」の観念によって、人間の心を2つの相容れない領域に染め上げるシステムです。(略)賢治の物語の背後で、日本は、南樺太だけでなく、すでに台湾および朝鮮半島をも植民地的支配下においていました。その意味では、「サガレンと八月」も「オツベルと象」も、北の植民地と南の植民地の苛烈な状況への思いを背後に抱きながら、政治のはたらきを、人間の心のはたらきに場に移し替えて思考しようとした賢治の、生存をめぐる、終わることのないぎりぎりの闘いだったように思われるのです。
「永遠」の探求者ボルヘスが晩年に書いた最後の短篇の1つ「青い虎」(1983)。この作品もまたインドが舞台でした。そしてここでは〔引用者補記:宮沢賢治「オツベルと象」の〕象ならぬ虎が、しかも青い虎という「貴種」が、それを冒険行の戦利品として目撃しようとする西洋の旅人によって探し求められあす。けれど青い虎は姿をあらわさず、かわりに虎は無限増殖する青い石へと変化し、この魔術的な石を拾ってしまった旅人は処分に困り、たまたま寺院の門前で物乞いをしていたターバン姿の男にその青い石を押しつけます。乞食は旅人に返礼としてあるものを渡しました。ボルヘスの物語の結末は残酷です。というのも、この青い石と引き換えに旅人が受け取ったものこそ「昼と夜、分別、習慣、そして世間」だった、というのですから。私たちの世界の、世俗の業果のすべてが、存在の淵を越えて、こうして私たちのものとにあふれ出したのです。青い虎、白い象がみずから放擲した、人間の果てることのない因果と報いが……。そう、虎や象の青白い無垢は、こんな代償を払った末の苦渋の宝物だったのです。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019/p.306-307)
「人間の心を2つの相容れない領域に染め上げるシステム」に抗して、「生存をめぐる、終わることのないぎりぎりの闘い」というテーマを作品に読み取ることができる。生存をめぐる闘いは旅路にも擬えられよう。そして、「人間の心を2つの相容れない領域に染め上げるシステム」を乗り越えた先では、自他の区別が消失することにもなる。
あるいは、「私」と「あなた」という、本来まじわりえない二者の相互浸透をテーマにしつつ、自他の区別が消える融合的・集合的な「いのち」の存在感を描き出そうとした不思議な寓話が〔引用者補記:宮沢賢治の〕「マグノリアの木」でした。霧におおわれた山谷の険しい細道を辿りながら、あたり一面にマグノリア(辛夷や泰山木)の白い花が咲いている美しい高原にやってきた諒安は、背後から彼に呼びかける不思議な声を聞きます。
「さうです、マグノリアの木は寂静印です。」
強いはっきりした声が諒安のうしろでしました。諒安は急いでふり向きました。子供らと同じなりをした丁度諒安と同じくらゐの人がまっすぐに立ってわたってゐました。
「あなたですか、さっきから霧の中やらでお歌ひになった方は。」
「えゝ、私です。又あなたです。なぜなら私といふものも又あなたが感じてゐるのですから。」(「マグノリアの木」『全集 6』〔引用者註:ちくま文庫『宮沢賢治全集』〕140頁)この物語の舞台設定は、あきらかに仏教的な絶対境か桃源郷のような趣を持っています。ですがそうした要素を外し、叙述することばの強度だけに注目したとき、この「えゝ、私です。又あなたです」というひとことの持つ表層的な論理矛盾と、その違和感をあっさりと凌駕するほどの不思議な存在の相互浸透の気配に、私は驚かざるをえません。個別化された「人格」という観念が雲散霧消してゆき、そこに出現する自他一体となった集合的な感情と記憶の世界こそが、私たちの真の魂が住みつく領域ではないかと思われてくるのです。同じような夢幻的な寂静世界を舞台とする〔引用者補記:宮沢賢治の〕「インドラの網」においても、秋風のなかで昏倒(=擬似的な「死」)することによって天の空間へと導かれた「私」は、インドラの網が体現する、万象をむすぶ集合的な関係性の世界へと合一していくのです。「私」が、すなわち「あなた」でもあるような、すべてが同しつつ交響する宇宙です。
ここで、メキシコの詩人オクタビオ・パスが、詩が実現しうる自他の融合をめぐって、詩論集『弓と竪琴』でこう書いたことが思い出されます。詩的可能性は、われわれが決定的な飛躍をなした時、すなわち、われわれが実際にわれわれ自身から脱出し、〈他者〉の中に身を委ね、埋没した時にのみ実現される。その決定的な飛躍の時、深淵でこれとあれの間に宙吊りになっている人間は、十全な存在であり、現存する充実である彼自身となることにおいて、電撃的な一瞬の間、これとあれ、過去の彼と未来の彼、生と死になる。今や人間は、彼がなりたいと願っていたすべてである――岩、女、鳥、他の男、そしてまた、他の存在である。(……)詩の声、〈他の声〉はわたしの声である。人間の存在はすでに、彼がなりたいと願うその他者を含んでいる。(オクタビオ・パス『弓と竪琴』牛島信明訳、岩波文庫、308-309頁)
詩人によるこのような至高の方法序説を受けとめたとき、賢治の「マグノリアの木」における「えゝ、私です。又あなたです。」という不思議な一節が、同時に、「詩」という行為の秘法をめぐることばでもあったことが深く了解されてきます。「人間の存在はすでに、彼がなりたいと願うその他者を含んでいる」。こうパスは言いました。そこで「私」は「あなた」だけでなく、「これ」と「あれ」、過去と未来、生と死もまた、集合的・交響的・回帰的な時空間のなかで、相互に浸透し合い、変容し合っているのです。個の存在や自我の意識は、もはやこの領域では存在することができないのです。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019/p.375-377)
表題作《イコール》の描く女と羊とが溶け合うように描かれるのは、「個別化された『人格』という観念が雲散霧消してゆ」く姿を表現するために他ならない。絵画により実現される「自他の融合」、それこそ作家の訴える「イコール」である。