展覧会『堀江栞「仮定法のない現在」』を鑑賞しての備忘録
銀座 蔦屋書店〔アートウォール〕にて、2024年5月11日~31日。
人形を描いた「ここに在ること」、人物を表した「輪郭」シリーズなど岩絵具による膠彩画8点と、人の顔をモティーフとする「かさぶた」シリーズの水彩画とで構成される、堀江栞の個展。
《輪郭 #19》(530mm×410mm)は、ざらついた暗い紺色の背景に熊の人形を左手で持ち上げた人物の胸像。前髪を額垂らし眉の上で切り揃え、後ろ髪は襟足までの、いわゆるおかっぱで、耳は隠れる。レア・セドゥ(Léa Seydoux)を彷彿とさせる中性的な顔立ちで、口を結び、青い瞳で正面を見据える。オレンジや赤などを細かく点じて表された肌は、暗い緑色の国民服のような質素な服に映える。熊の人形は、それを掲げる人物の手よりやや大きいサイズで、右耳が欠け、毛羽立ち、草臥れている。凜々しい青年――少年というには大人びている――は人形を手にするほど幼くはない。人形は純真さのような価値を象徴し、人物はそれを守ろうとしているのかもしれない。
《輪郭 #16》は、横長の画面(320mm×820mm)の右側に、耳が出た短髪の顔が表される。を描く。口は閉じられ、目は虚ろだ。暗い背後には、人形を置いて遊ぶためのものだろうか、ミニチュアの小屋とベンチとが並べられた木製の棚がある。背景に溶け込む無人の小屋やベンチは、人物の空虚さを象徴する。人物は人形となる。
《ここに在ること Ⅴ》(727mm×500mm)は、ざらついた暗い赤紫を背景に頭髪のない少女の人形を描き出した作品。オレンジや赤で表された少女の肌には、首、肘、手首などに線が描き入れられることで、部分的に可動式の人形であることが分かる。薄紫や緑を細かく差した白いワンピースのドレスは年季が入っている。頭髪は取れてしまったのだろう。草臥れた人形はそれでもまっすぐ前を見詰める。
《ここに在ること Ⅹ》(1455mm×900mm)には、黒に白を差したざらついた背景に、帯で胸の下を結んだカーキのワンピースの少女の人形が描かれている。帽子を被った頭は右にやや向けられている。顎の線から口が可動式であり、腹話術に用いられる人形らしい。右足は靴下のみで、左足だけ赤い靴を履く。床に置かれて力なく首を曲げている様子は、《ここに在ること Ⅴ》の人形が自立して正面に眼差しを向けるのと対照的である。腹話術師の存在があって初めて生きる定めなのだ。鑑賞者は腹話術師となる。
《証人 Ⅲ》(273mm×220mm)は画面一杯に、大きな嘴が特徴的なハシビロコウの顔を描いた作品である。背景も羽根も青とオレンジとで表わされているが、羽根の方が粒子が粗くザラザラしている。嘴はより荒く、ゴツゴツとしている。瞳の表現がない白い目が強い印象を残す。鉱物により構成された生き物は魂の抜けたがらんどうである。だが、そこに魂を吹き込む余地が生じる。子供が人形を相手にするように。
《アンドロメダを想う Ⅰ》(455mm×652mm)は、蜥蜴のような爬虫類の顔を黒い背景にクローズアップして描き出す。粒子の細かい黒い背景に対して、茶とオレンジで表された爬虫類の皮膚のゴツゴツとした感じが浮き立つ。《証人 Ⅲ》のハシビロコウとは対照的に、大きな目の青い瞳が美しい。瞳には星雲を映した白い靄がかかっている。その靄は250万年前に発された光だ。その頃、地上には、原人さえもまだ姿を現わしていない。現在は、現前することだけでなく、過去や未来が混在している。
英語の仮定法(subjunctive)は、フランス語の接続法(subjonctif)などと同様、事実でないことを前提とした表現である。「仮定法のない現在」とは、事実だけで構成された世界を指すのであろう。だが、そのような世界こそ、仮定法≒接続法で表わされた世界であると言うほか無い。実際、作家の作るゴツゴツとした画面は、岩絵具という鉱物で形成されていることが強調されるが、描き出される人物には――生物や人形であっても――生命が宿っている。少なくともそのように見てしまう。それは、仮定法≒接続法で表現される想念を排することができないからである。仮定法≒接続法で表わされる世界、絵画に表わされる世界こそ、現実を構成する。作家は逆接的な言葉を展覧会に冠することで、想念の重要性を訴えるのだ。