展覧会『SAKI OTSUKA「その希望/私の記憶について」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY ETHERにて、2024年5月11日~6月1日。
青い画面に羽搏く鴉を1羽ずつ描き、24枚を一列に並べて飛翔を表わした「karasu」シリーズと、それに基づくアニメーション映像、さらに鴉と対になる白い綿で造型した人物像「人間」シリーズ8点などで構成される、SAKI OTSUKAの個展。
「karasu」シリーズ(各300mm×300mm)は青い画面に1羽の羽搏く鴉を描いた作品群で、壁面のやや高い位置に24枚が横一列に並べられている。青い背景は昼日中の青空と言うには暗く、日の出前、あるいは日の入り後の所謂ブルーアワーを表わすのだろう。鴉は翼を上げ、あるいは下げ、それぞれ異なる姿勢で描かれている。細長い展示空間に同形式の絵画が横一線に並べることは歩みながらの鑑賞を示すシグニファイアとなり、鑑賞者の前に飛翔する鴉が自然と姿を現わす。会場の一隅では「karasu」シリーズを元にしたアニメーション映像も上映されている。
平面の黒い(厳密には濃紺の)鴉と対照的なのが、針金の芯に白い綿で造型した人物像「人間」シリーズである。クマのぬいぐるみを抱える子の肩に手を置く親、手を取り合う恋人たち、坐って読書をする人、手を差し出して迎える人、犬を撫でながらカウチに腰を降ろす人など、白い壁面を背景に雲のような模糊とした姿を見せる。綿の中には白色のLEDランプがいくつか仕込まれ、発光している。さらに、会場には雑踏の中で録音された音声が流されている。人間(にんげん)は人間(じんかん)でもある。
鴉と雑踏から連想されるのは、「大鴉(The Raven)」や「群集の人(The Man of the Crowd)」で知られるエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)だろう。
いまもよく覚えているが、あれは寒々しい12月のことだった
暖爐の火はおとろえて、焔の影が床にゆらめいていた。
私は朝のくるのを心から願っていた――というのも読書によって悲しみを消そうとしたのに、悲しみは消えなかったからだ――その悲しみとは、レノーアの逝ったこと――
あの輝くばかり美しい乙女、天使たちがレノーアと名づけた乙女は、もはや永遠にこの世からいなくなったのだ。(エドガー・アラン・ポー「大鴉」加島祥造編『対訳 ポー詩集――アメリカ詩人選(1)』岩波書店〔岩波文庫〕/1997/p.143)
そのときドアを叩く音がして、レノーアが訪れたのではないかと出てみるが誰もいない。また物音がするので窓を開くと、大鴉が部屋に舞い込み、書斎の大理石のパラス像に留まる。大鴉に名を問うと、Nevermoreと答えた。
そして大鴉は身じろぎもせず、なおも、ああ、なおも、とどまったままだ、
わが部屋のドアの上、あのパラス像にとまったまま
その両眼は、何か夢を見ている魔物の眼のよう――
ランプの光は鴉の影を床に投げていて
そしてわが魂は、床におちたその影にとらわれて立ち上がれないのだ――もはや二度と――nevermore!(エドガー・アラン・ポー「大鴉」加島祥造編『対訳 ポー詩集――アメリカ詩人選(1)』岩波書店〔岩波文庫〕/1997/p.161)
「大鴉」に登場する「大鴉」は過去に囚われた主人公の鏡像である。"nevermore"とは主人公の言葉に相違ない。本展では「karasu」の向かいに、同形式の青い画面に"SAKI OHTSUKA"とだけ記した《my name》(300mm×300mm)が展示されており、karasuは作家の鏡像であることが示されている。「大鴉」における大鴉と主人公との関係のアナロジーが認められよう。
「群集の人」では、秋の暮れ方、ロンドンの人混みの中で「私」は興味を惹かれた老人を尾行する。老人は雑踏を求め只管歩き廻る。
(略)だが、例によって彼はただ行きつ戻りつするばかり、その日一日じゅう、彼はついに一度もこの通りの雑沓から離れなかった。2日目もこうしてようやく暮れかけた頃には、私ももうすっかり疲れてしまった。そしてとうとう、思い切って老人の真っ正面に立ちはだかると、じっと眼を据えて彼の顔を見入った。ところが、それでも彼は気がつかないらしい、またしても粛々と歩き出すのだったが、さすがに今度は私ももう尾行をやめて、じっと深い感慨に沈んでしまった。「この老人こそ、深い罪の象徴、罪のこころ(精神)というものなのだ」と、ついに私は呟いた。「あの老人は一人でいるに堪えられない。いわゆる群集の人なのだ。後を尾けてもなにになろう。彼自身についても、彼の行為についても、所詮知ることはできないのだ。人間最悪の心というものは、あの『心の園』よりももっと醜悪な書物であり、おそらくそれがついに解読を許さないes lässt sich nicht lesenということは、むしろ神の大きな恩寵の1つなのではあるまいか」と。(エドガー・アラン・ポオ「群集の人」『ポオ小説全集 2』東京創元社〔創元推理文庫〕/1974/p.392-393〔中野好夫訳〕)
「一人でいるに堪えられない」「群集の人」である老人は、黒い影=鴉なので(その心を)読み取ることができない(es lässt sich nicht lesen)のである。その老人を追い雑沓を歩き廻る「私」もまた同じく「群集の人」でなくて何であろう。老人は鴉であり、鏡なのである。
本展の「人間」は、黒い影の「karasu」とは対照的に、白く、光を放つ。だが模糊とした姿から(その心を)読み取ることができない(es lässt sich nicht lesen)という点では等しい。ならば「人間」もまた「karasu」であり、延いては鏡と言える。
「karasu」(白)や「人間」(黒)による「鏡」とは、鏡像という反転像であることに着目すれば、白(≒1/on)と黒(≒0/off)の反転可能性を表すのではないか。量子コンピューティング技術における状態の共存のように、観測したときに1か0(黒)が決まる。「人間」は解読を許さない(es lässt sich nicht lesen)とは、この反転可能性ゆえではなかろうか。作家はそこにこそ希望を見出すのだ。反転可能性は「神の大きな恩寵の1つ」だからである。ブルーアワーは日の入り(0/off)後だけでなく、日の出(1/on)前にも見られるのだから。