可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

本 吉田修一『湖の女たち』

吉田修一『湖の女たち』〔新潮文庫よ-27-8〕新潮社(2023)を読了しての備忘録

琵琶湖の北西岸に立つ介護施設もみじ園。100歳の入居者・市島民男が心肺停止状態で発見された。施設側の説明とスタッフたちの態度に不審を抱いた家族が通報し、西湖署署員が事件と事故の両面で捜査を開始する。ベテラン刑事の伊佐美の指示の下、濱中圭介がスタッフから事情を聴取したが不審な点は無かった。圭介は大阪にある大手医療機器メーカーの本社に赴いて人工呼吸器について確認し、何重ものチェック機能が働く設計のため、故意で無い限り動作が止まる可能性は極めて低いことが分かった。圭介は大阪からの帰り、雨で視界の悪い中、県道から畦道に左折した際に背後から軽自動車に追突された。軽自動車の運転主は、圭介がもみじ園で事情聴取した介護士・豊田佳代だった。
佳代は20年前、8歳の時に母を亡くし、祖母の寿子とともに家を切り盛りしてきた。父・正和は祖父から引き継いだ石材店を経営し、高校時代の同級生でバツイチの静江と交際して長い。3年前の祖母の葬儀では静江が世話を焼いてくれた。佳代の勧めで間もなく還暦を迎える父は静江と同居することになり、「かばた(川端)」のある民家で佳代は一人暮らしになった。もみじ園のユニットリーダー服部の紹介で知り合った数学教師の国枝と交際しているが、国枝が佳代に愛情を示すことはない。佳代は結婚の話題を躱すために彼の求めに応じているのも同然だった。
圭介の妻・華子は、大学時代にはミス琵琶湖に選ばれた名前の通り華々しい経歴を持つ
歯科医の娘。二人は違う高校に通っていたが、両校の親睦会で知り合った。大学時代には同棲し、圭介が警察学校を卒業した後に結婚した。臨月の華子は、刑事の圭介が多忙のため、実家に戻っている。圭介は華子とうまくやっていく自信があったが、接触事故以来、なぜか佳代が脳裡に浮かぶ。誰もいない自宅で一人夕食を取っていた圭介は、佳代の住まいに自動車を走らせた。事故のときの軽自動車で佳代の家を確認し、小石を明かりの点いてる窓に何度か投げつける。

 女は外へ出てきた。ひどく動揺しているようで、そのせいか素足に履いている安物のサンダルが子供用のように小さく見えた。
 圭介は女から目を離さなかった。
 顔を上げた女が、「何か?」と恐る恐る問うように眉を動かす。
 どれくら見つめ合っていただろうか。
 「……言えよ」
 圭介はそう言った。
 「え?」
 「言えよ。会いたかったって」
 考えていた言葉ではなかった。自然とそんな言葉が口から出た。女は表情を変えない。また水路を流れる水音だけが高くなる。
 「……言えよ」と、圭介は繰り返した。乱暴だったさっきよりも、さらに乱暴な言い方だった。
 女は何を言われているのか分かっているくせに、分からないふりをしているようだった。逆に圭介は自分が何を言っているのか分からないくせに分かっているようなふりをした。(吉田修一『湖の女たち』新潮社〔新潮文庫〕/2023/p.90-91)

もみじ園の捜査とは関係なく圭介は佳代の家を訪れ、姿を現わした佳代に会いたかったって言えと命じる。「何を言われているのか分かっているくせに、分からないふりをしている」佳代と、「自分が何を言っているのか分からないくせに分かっているようなふりを」する圭介とは、極めて対照的である。だが、川端の家の佳代は水面であり、圭介の姿を映し出しているのだ。

 もみじ園事件の捜査が煮詰まっていた。簡潔に言ってしまえば、施設のスタッフたちは口を揃えて人工呼吸器が故障したのだと言う。だが、その製造元であるP社は故障の形跡などどこにもないと言い張る。
 とぢらかが嘘で、どちらかが真実である。
 しかし圭介には、なぜかその両方が嘘に思える瞬間がある。いや、もちろんそんなことはない。真実がなければ嘘もないし、その逆も然りだ。
 「もっと容赦なくやれよ」
 苛立ちを抑えるような力で伊佐美の肘が圭介の脇腹に入る。圭介は奥歯を噛んだ。(吉田修一『湖の女たち』新潮社〔新潮文庫〕/2023/p.83)

捜査が難航する中、圭介は、検察官が粗筋を書き、伊佐美が完成させた供述を、介護士松本郁子に自白させようとしていた。

 どちらも真実だと思うから、意図が絡み合うのだと検察官や伊佐美は考えている。じゃなくて、どちらも嘘だと思えばいいと。目の前にいるのは、2人の正直者ではなく、2人の嘘つきだと。ならば、2人のうち、弱そうな嘘つきを罰しようと。(吉田修一『湖の女たち』新潮社〔新潮文庫〕/2023/p.115-116)

権力者が弱者に責任転嫁する。伊佐美が圭介を従属させるように、圭介は佳代を支配しようとする。

 あの夜、激しく体が震え出したのは、刑事の車が走り去ったあとだった。玄関先で電話を終えた刑事が自分の車へ戻り、走り去って行く気配を、佳代は暗い玄関にじっと立って聞いていた。完全に音が聞こえなくなると、なぜか電気もつけずに台所へ向かい、石甕の水を飲んだ。ひどく喉が渇いていた。耳にはまだ、「会いたかったって言えよ」という刑事の声が残っていた。石甕の水をもう1杯飲もうとした瞬間、立っていられないほど膝が震え出し、その場に蹲った。震える体が床板を軋ませた。
 今、自分があの刑事に何をされたのか。
 それを考えようとした途端に怖くなり、以来、佳代は考えることをやめたのだ。
 (略)
 また、コツンと鳴った。
 佳代は、もう行かない、と心中で呟いた。ただ、言葉とは裏腹に、体が勝手に立ち上がり、きっちりと引いているカーテンに手が伸びる。少しだけ引いた隙間から外が見えた。しかし街灯の下には刑事の姿はなく、アスファルトがオレンジ色に丸く照らされている。
 佳代は思わず刑事の姿を探した。(吉田修一『湖の女たち』新潮社〔新潮文庫〕/2023/p.108-109)

佳代は圭介の奴隷に身を堕とすことで全てから解放される妄想に囚われていく。

 もう終わりだ。もうほんとに終わりなんだ。だからもう何も考えなくていいんだ。
 そう思うと、神のような存在に強く抱かれている感覚に包まれる。
 お前は何も心配しなくていい。何もかも任せておけばいい。(吉田修一『湖の女たち』新潮社〔新潮文庫〕/2023/p.232)

佳代は圭介に対する依存を高めていく。その姿は、伊佐美や警察組織の命令に服する圭介の似姿である。

 「あの」と、圭介は伊佐美に声をかけた。
 「なんや?」
 「はい……松本ですが、もうまともに取り調べを受けられる精神状態やないと思います」
 圭介は伊佐美の顔色を窺ったが、そこに変化はない。
 「お前、アホか? そやったら、なんやねん。そんなん、みんなもう分かってるわ」
 言いながら、伊佐美が圭介の頭を叩く。
 圭介は自分でも何を伝えたかったのか分からなくなる。弱そうな嘘つきとして彼女が選ばれたことを薄々感づいていたくせに、今になって彼女を許してやってくれとでも頼むつもりだったのか。
 これは冤罪ではない。彼女が市島民男を故意に殺したのだ。彼女は介護士の待遇に不満を持っていた。いつか病院側にその恨みを晴らしたかった。呟けば呟くほど、彼女が犯人に思えてくる。(吉田修一『湖の女たち』新潮社〔新潮文庫〕/2023/p.152-153)

アウシュヴィッツ強制収容所ユダヤ人大量移送に関わったアイヒマンが、忠誠と服従の誓いに拘束され、上司の命令に従っただけだと訴えたことが想起される。

(以下では、結末にも触れる。)

佳代の圭介に対する盲従は行き着くところまで行く。手錠をされた佳代は圭介の命令で浮桟橋から湖に飛び込むよう命じられる。

 背中に圭介を感じた。
 「俺のこと、信じられへんか?」と彼は訊く。「俺のこと、信じられるな?」と彼は言う。
 佳代は桟橋の端から右足の親指だけを出した。たかが親指なのに、もう体が湖の底に沈んでいくような恐怖を感じる。
 溺れても圭介が助けてくれる、とは思えなかった。
 そんなことよりも、自分の命が彼の手に握られているということが、佳代に勇気を与えた。
 飛び込めと命じられた自分には選択権はない。ここで溺れ死ぬか助かるか決めるのは自分ではなくて圭介なのだ。(吉田修一『湖の女たち』新潮社〔新潮文庫〕/2023/p.352-353)

「命じられた自分には選択権はない」とはアイヒマンの主張さながらである。佳代は湖に飛び込むだろう。それでも、そこから生還する足掛かりを得ることになる。佳代の生還は、圭介の再生に繋がること必至である。

駆け出しの雑誌記者・池田は、1990年代に50名を超える死者を出しながら立件に至らなかった薬禍事件を追って旧琵琶湖ホテルにいたところ、デスクの渡辺からもみじ園の医療事故を取材するよう求められる。その池田の取材を通じて、元刑事の河井から伊佐美アイヒマン化するきっかけとなったエピソードが語られ、市島民男の妻・松江からもう1つの湖・満洲ピンファン湖でのある事件が明るみになる。後者は関東軍731部隊の生体実験を背景とする。人間を実験材料とする発想が、相模原障害者施設殺傷事件を介し、もみじ園の事件へと連なっていく。生き延びる優生思想が本作のもう1つの柱である。

 湖の夜は、ふいに明ける。
 空も湖面も対岸の山の稜線も、なんの境目もなかった黒一色の世界には、静かに寄せる波音だけがあった。ただその波打ち際さえ、いったいどこにあるのかも分からない。 そんな黒一色の世界に、まず浮かび上がってくるのが湖面の波だ。
 湖面で揺れる波がこの漆黒の世界に初めて生まれる色とも呼べない第一の光となる。波が揺れているから、そこに湖面があることが分かる。
 もし揺れていなければ、存在しない。
 じっと見ていると、まるで世界にはこの湖面しか存在しないのではないかとさえ思えてくる。それほどの孤絶感に襲われる。そして孤絶感にも、やはり色と呼べる色がない。(吉田修一『湖の女たち』新潮社〔新潮文庫〕/2023/p.376)

結末を前に、明け方の湖が、恰も新たな世界が創造されるように、滔滔と描写されていく。その筆力たるやまさに圧倒的である。この場面を描くために本作が執筆されたかのようだ。