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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 柴田樹里個展『堕ちる天國、誘惑する地獄』

展覧会『柴田樹里個展「堕ちる天國、誘惑する地獄」』を鑑賞しての備忘録
みうらじろうギャラリーにて、2024年5月25日~6月9日。

水や魚あるいは花や草とともに閉鎖空間に囚われた女性をモティーフとする絵画で構成される、柴田樹里の個展。

《存在の為にある美しい儀式》(410mm×318mm)には、血が溜まる洗面台の前で、刃に血の附着した小さな鋏を手にした女性が鏡に向かう姿が描かれる。彼女の右頬からは赤い血が垂れる。鏡に映るのは、額に円形に刃が入れられて血が滲み、その中に金魚鉢が覗く、彼女の顔、そして鋏だ。そして、鏡の中だけに見えるのが金魚で、彼女の左右の頬に2匹、頭上に3匹が游泳する。暗い洗面所の壁は鱗のようであり、洗面所は金魚鉢と類比の関係に立つ。ところで、鋏の先は、鏡の下端、鏡像では彼女の喉に位置する。人間の脚を手に入れる代わりに尾と声を失った、ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen)の『人魚姫(Den lille Havfrue)』を連想させずにおかない。彼女は人魚であり、金魚鉢の金魚(観賞魚)であった。額の金魚鉢はその刻印である。彼女は眼差しの客体であった。この解釈の証左となるのが、水族館の水槽の中でしゃがみ込む2人の女性を描く《夢見る忌み子》(318mm×410mm)である。彼女たちは、水槽のガラスに映り込む来館者よって見られる存在である。翻って、《存在の為にある美しい儀式》の女性は、人魚(半分人間)が象徴する眼差しの客体から、眼差しの主体でもある人間へと変身を遂げようとしている。それが「存在の為にある美しい儀式」なのだ。彼女の腰より下が描かれないのは尾が失われること(脚へと変じること)を暗示するためであろう。そこに女性を男性と対等な立場に置こうという発想を見て取ることは容易である。
作者は、人魚やウンディーネ(Undine)など水と結び付けられた女性が象徴するファム・ファタール(femme fatale)をモティーフに採用した上で、それを否定することによって、一方的な男性の眼差しを躱すことを狙っているのではないか。
点滴を受けながらベッドに横たわる女性を描いた《わたしの身体なのに、わたしのものではない皮膚》(318mm×410mm)において、乳首が切除されるとともに、下腹部に切開手術による縫合の痕が描かれるのは、出産(子宮)や授乳(乳首)≒子育てが女性の役割として押し付けられている状況(女性のからだの自己決定権が損なわれていること)のメタファーであろう。臀部が鱗状になっているのは、《存在の為にある美しい儀式》でテーマとされた、人魚=ファム・ファタールとして一方的な男性の眼差しに曝されていることを仄めかす。
《祈り、絶望し、天國へ逃避する》(652mm×530mm)には、賽の河原のようでも、水底のようでもある場所に立つ女性(の遺体?)が描かれる。左側に傾いた頭部により白い肌の身体もまた左側に傾ぐ。目は閉じられているのではなく、白い眼球が覗いているようだ。唇は血の気が無い。左右の乳房は切り取られて女性の背後に落ち、その1つからは焔が上がっている。乳房の失われた左胸には、西方浄土を想起させる日没の海景が、右胸には極楽浄土をイメージさせる蓮池が覗く。下腹部も切開され腹腔内が見える。近くに落ちて焔を上げているのは子宮だろうか。ところで、バスの座席に坐る女性を描いた《窓の外の天國》(318mm×410mm)では、非常口のピクトグラムの人が右ではなく下に向かう。窓外には薄紫の空を背にした山を望み、すぐ脇には川が流れている。白い花が流れ、バスの進行方向である下流には女性の死体も見える。タイトルと非常口のピクトグラムとを勘案すれば、水底が天國ということになる。翻って水底を舞台とする《祈り、絶望し、天國へ逃避する》は天國の描写と言っても過言ではなかろう。従って、《わたしの身体なのに、わたしのものではない皮膚》においては女性のからだの自己決定権が損なわれていることの象徴であった、乳房や子宮の切除は、一方的な男性の欲望の対象から免れていること、性的役割分担を否定していることを表わす可能性がある。《わたしの身体なのに、わたしのものではない皮膚》では女性が横たわっているのに対し、《祈り、絶望し、天國へ逃避する》では女性が(辛うじて)立ち上がっているのも両者の差異を生むのに与っている。
従って、《迷える子羊は、幾度も地獄に惑う》(727mm×910mm)において、有刺鉄線が引かれた草叢で羊のぬいぐるみを抱えた女性がしゃがみ込むのは、従属(横になる)と自立(立つ)との間で揺れている状況を表わすことになろう。薄汚れてしまった死に装束を纏った女性が同じぬいぐるみを手に、白いTシャツ姿でしゃがむ女性を覗き込む。羊は眠りであり、夢であり、同時に生贄でもある。夢を諦めて楽になる誘惑に打ち克ち、夢を叶える茨の道を歩むことができるだろうか。白いTシャツ女性の女性に寄り添う、雑草の中で花開く白百合は、彼女自身であろう。紫の空は黎明であり、ごく薄い月は新月が近いことを示唆する。迷える子羊は、幾度も地獄に惑う、けれども、と希望が覗く。