展覧会『カフカ没後100年記念 「変身」するカフカ』を鑑賞しての備忘録
早稲田大学国際文学館にて、2024年4月26日~9月16日。
没後100年を迎えたフランツ・カフカ(Franz Kafka)を代表作『変身(Die Verwandlung)』を切り口として紹介する企画。『変身』冒頭部の日本語訳を比較し、諸国(諸言語)で発行された『変身』の表紙(初版本では蟲(Ungeziefer)は描かれていない)を並べ、カフカの生涯について年表で解説する。また、日本でいかにカフカが受容されたかを解説し、日本人小説家の手掛けた変身譚や、カフカの変身に影響を受けた漫画原稿などを陳列する。展示される書籍についてほとんどが閲覧可能なのが嬉しい。
カフカの作品には生前に書かれたものと遺稿を託された親友マックス・ブロート(Max Brod)によって編集されたものがある。カフカが手紙の中で自作として挙げているのは、『判決(Das Urteil)』、『火夫(Der Heizer)』、『変身(Die Verwandlung)』、『流刑地(In der Strafkolonie)』、『田舎医者 (Ein Landarzt)』、『断食芸人(Ein Hungerkünstler)』だという。
展示の冒頭では、『変身』冒頭部の日本語訳をいくつか並べて、比較対照する。
ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で1匹の巨大な虫に変っているのを発見した。彼は鎧のように堅い背を下にして、あおむけに横たわっていた。頭をすこし持ちあげると、アーチのようにふくらんだ褐色の腹が見える。腹の上には横に幾本かの筋がついていて、筋の部分はくぼんでいる。腹のふくらんでいるところにかかっている布団はいまにもずり落ちそうになっていた。(カフカ〔高橋義孝〕『変身』新潮社〔新潮文庫〕/1952/p.5)
高橋義孝訳では、"fand er sich in seinem Bett zu einem ungeheueren Ungeziefer verwandelt"の部分を、「(彼は)[er]自分が[sich]寝床の中で[in seinem Bett]1匹の巨大な虫に[einem ungeheueren Ungeziefer]変っているの[verwandelt]を発見した[fand]としている。これに対し、タイトル『変身』を「へんしん」ではなく「かわりみ」とする多和田葉子は、高橋訳とはかなり趣を違える。
グレゴール・ザムザがある朝のこと、複数の夢の反乱の果てに目を醒ますと、寝台の中で自分が化け物のようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物あるいは虫)に姿を変えてしまっていることに気がついた。鎧のように硬い背中を下にしてあおむけに横たわっていて、頭を持ち上げて見ると、腹部は弓なりにこわばってできた幾筋もの茶色い帯に分かれていて、その上に乗った掛け布団を滑り落ちる寸前で引き留めておくのは無理そうだった。(カフカ〔多和田葉子〕「変身(かわりみ)」多和田葉子編『ポケットマスターピース01 カフカ』集英社〔集英社文庫〕/2015/p.9)
まず、直訳すれば「不穏な夢から目を覚ました」とでもなる"aus unruhigen Träumen erwachte"を「複数の夢の反乱の果てに目を醒ます」と大胆に表現している。そして、直訳では「巨大な害虫に」となる"einem ungeheueren Ungeziefer"については、音訳と註釈とによって「化け物のようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物あるいは虫)」としている(なお、形容詞ungeheuerは「途方もない」や「巨大な」を表わすが、名詞Ungeheuerには「怪物」や「巨大で不格好なもの」といった意味がある)。最近の洋画の邦題に見られる、無理からぬが一抹の寂しさ・残念さを覚える音訳+訳語方式に近い(「ウンゲツィーファー 怪物」なんて邦題の映画はいかにもありそうではないか)。
日本におけるカフカの受容は、岡村弘「Franz Kafka――『寂寥』の階級制」(1932)が嚆矢とされていたが、本展企画者・森下奈七により、片山孤村が『現代の独逸文化及文芸』(1922)において表現派の作家としてカフカに言及していることが明らかになった。
カフカの『変身』同様、変身譚として著名な『山月記』で知られる中島敦は、『狼疾記』において「俺」がカフカの『窖』を読む描写を挿入しているという。安部公房の『デンドロカカリヤ』、小川国夫の『黒馬に新しい日を』、倉橋由美子の『スミヤキストQの冒険』なども変身譚として紹介されている。その中で興味深かったのが、島尾敏雄の『夢の中での日常』である。自作が雑誌に載っているのに気付いた自称・ノヴェリストの主人公に異変が起こる。
私の頭にはうすいカルシウムの煎餅のような扁平で大きな瘡が一面にはびこっていた。私は人間を放棄するのではないかという変な気持お中で、頭の瘡をかきむしっていた。すると同時に猛烈な腹痛が起った。それは腹の中に石ころを一ぱいにつめ込まれたオオカミのように、ごろごろした感じで、まともに歩けそうもない。私は思い切って右手を胃袋の中につっ込んだ。そして左手で頭の中のものをえぐり出そうとした。そのうち私は胃の底に核のようなものが頑強に密着しているのを右手に感じた。それでそれを一生懸命に引っぱった。すると何とした事だ。その核を頂点にして、私の肉体がずるずると引き上げられて来たのだ。私はもう、やけくそで引っぱり続けた。そしてその揚句に私は足袋を裏返しにするように、私自身の身体が裏返しになってしまったことを感じた。頭のかゆさも腹痛もなくなっていた。ただ私の外観はいかのようにのっぺり、透き徹って見えた。そして私は、さらさらと清い流れの中に沈んでいることを知った。(島尾敏雄「夢の中での日常」同『夢の中での日常』現代社/1956/p.52-53)
「身体が裏返しになってしまった」とは、広瀬アリスも読むなるといふ『リバーシブルマン』の「ウラガエリ」を連想させずにはいない。
ところで、カフカは友人オスカー・ポラックに充てた手紙に次のように記している。
(略)でも、良心に大きな傷ができるのはいいことだ。良心が敏感になって、ほんの少し噛まれただけでも痛むようになるからね。そもそも、自分を噛んだり刺したりするような本だけを読むべきだとぼくは思う。ぼくらの脳天を直撃して目を覚まさせてくれる本でないなら、何のために本なんか読むんだ?(略)ぼくらが必要としているのは、ぼくらを苦しめる不幸みたいな働きをする本多。たとえば自分自身より大切に思っている人の死みたいな。たとえば人里離れた森野中に追放されているような。たとえば自殺みたいな。本というものは、ぼくらの中にある凍りついた海を叩き割る斧でなければならない。それが僕の考えだ。(カフカ〔川島隆〕「書簡選」多和田葉子編『ポケットマスターピース01 カフカ』集英社〔集英社文庫〕/2015/p.673-674)
カフカの求める読書体験とは、島尾敏雄の「夢の中での日常」において「私」の「身体が裏返しになってしま」う状況に通じているように思えてならない。読書の衝撃により「ぼくらの中にある凍りついた海」が叩き割られ、「身体が裏返しにな」り、「いかのようにのっぺり、透き徹って」「清い流れの中に沈んで」しまうのである。