可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 内藤亜澄個展『まねごと』

展覧会『内藤亜澄「まねごと」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー椿 にて、2024年6月1日~15日。

ぐにゃぐにゃと曲がる手脚が印象的な人物を描く、内藤亜澄の個展。

《elements in the room》(727mm×910mm) では、室内で鉢植えの間に立つ少年が、恰も観葉植物の「動き」を真似するかのように片脚を挙げて踊る。観葉植物の「まねごと」をする少年の腕や脚はぐにゃぐにゃと曲がっている。なぜか。それは、現実世界から離脱するためだ。それは、他の作品を通して明らかになる。
《幻燈の牛》(1303mm×1620mm)は、画面中央の四角い闇の中から角を前に突き出して飛び出そうとするオレンジ色の牛に、ロデオよろしく両腕を後方に挙げて跨がっている少年を描いた作品。牛の脚、少年の腕と脚とが溶けるようにぐにゃぐにゃと曲がっているのが印象的である。方形の闇の周囲は、本やCDや積木が積み重ねられ、石膏の肖像彫刻や植木鉢などが置かれた明るい室内と、雲が湧き、紙吹雪が舞う青い空とが対照的に広がっている。四角い闇の左右には2脚ずつ椅子が置かれているが、これは座面を真上から見た形で描かれている。それに対し、本やCD、彫刻や植木鉢は横方向から描かれている。複数の視点が併存している。闇の中で光る牛は、幻燈で投影された映像であることを表わすのだろう。少年は映像の牛を眺め、それに自らが跨がる様を思い浮かべることで、今いる室内から飛びだして行く。現実と空想との境を跨ぎ越す様をぐにゃぐにゃと曲がる腕や脚が表現しているのだろう。
《離脱方法》(606mm×500mm)では、緑の天板のテーブルの上で、少女が顔と脚とを脱いだと思しき、拡げられた黄色いワンピースに付け、臀部を高く持ち上げている。右の足首に縛り付けてあるロープが床に垂れる。緑の天板には色取り取りの積木が積み上げられている。天板は上から、服と少女は斜め上から、積木は真横からそれぞれ描かれている。服を脱ぐことは、ロープが象徴する束縛状態から脱することを意味するのだろう。臀部を持ち上げ顔を下にしているのは、無意識にせよ、顛倒により主客――支配・被支配の関係――を逆転させようとしているのではなかろうか。崩れそうな積木は少女の不安定な心境を暗示する。
本展のキー・ヴィジュアルに採用されている《夕焼けチャイムが鳴り終わる》(1167mm×1167mm)は、裸の子供たちが、低く黄色い石垣の上から身を躍らせ、あるいは石垣に攀じ登ろうとし、また石垣に向かって駆けている。手前は草地で石垣の脇にはベンチがある。低い石塀の向こうには夕闇の迫るオレンジ色の光だけが見える。1本大きな松が覗くのは、海があるのかもしれない。実際、子供たちは海へでも飛び込むような様子である。《幻燈の牛》や《離脱方法》とは異なり、複数の視点が併存するわけではないが、跨ぎ越すことで別の世界へ向かおうとというテーマは共通する。あるいは、夕闇や海からすれば、境界の先にあるのは、沖つ国、常世の国かもしれない。
《私たちだけの国》(1303mm×1620mm)には、一面に広がる花畑の中で、椅子に坐る少女や、佇む少女たち――1人立つ少女と、手を繋ぐ2人の少女――が画かれる。地面から茎を伸ばし咲く花だけでなく、宙空にはバラやパンジーなどが浮かんでいる。最初は花に目を奪われて目に入らないが、画面には青、赤、黄などの絵の具が飛び散っている。画かれた世界であることが露悪的に示されているのである。「私たちだけの国」は現実には存在しない世界であり、その意味は、常世の国とも言いうるだろう。