映画『違国日記』を鑑賞しての備忘録
2024年製作の日本映画。
139分。
監督・脚本・編集は、瀬田なつき。
原作は、ヤマシタトモコの漫画『違国日記』。
企画は、橋本匠子。
撮影は、四宮秀俊。
照明は、永田ひでのり。
録音は、髙田伸也。
美術は、安宅紀史と田中直純。
衣装は、纐纈春樹。
ヘアメイクは、新井はるか。
音楽は、高木正勝。
千葉県内のパーキングエリア。田汲朝(早瀬憩)がアイスクリームを手に車に戻る。母親・高代実里(中村優子)が娘を呼んで手招きする。傍らには父・田汲はじめ(大塚ヒロタ)が立っている。朝の目の前をトラックが通過し、両親の車に衝突した。呆然となる朝。アイスクリームが足下に落ちた。
散らかった暗い部屋。窓際のデスクで高代槙生(新垣結衣)がPCに向かう。ルビーの素晴らしい魔術は…。快調に打ち込んでいると、スマートフォンが振動した。
千葉県警荒崎警察署。遅いじゃない。ようやく姿を現わした娘・槙生に母親の高代京子(銀粉蝶)が伝える。あの娘、解剖するって。そういうの断れないのかしら。実里、トラックに轢かれたって。私だって見たくない。
朝は真っ暗闇の中にいる。そこがどこかなのか分からない。
ベンチで眠っていた朝が目を覚ます。槙生ちゃん? そう槙生。ママの妹の。覚えてた? 知らないけど、お母さんがそう呼んでた。小説家の槙生ちゃんって。槙生は朝ちゃんのこと覚えてる? 小さい頃に会ったでしょ。でも、私とあの人は…。そうよねえ。
霊安室。納体袋が開けられる。確認する朝の手が強く握り締められる。
霊安室の外では京子がベンチに坐って待っていた。朝と槙生が出て来ると嗚咽する。
ベンチに坐る朝が手をじっと見詰める。指を開いたり閉じたりさせてみる。槙生は朝の隣に腰掛ける。悲しい? えっと、えっと…。分からない? 朝は頷く。別に変じゃないよ。えっ? 槙生、ちょっと。祖母に呼ばれて槙生が立ち上がる。
槙生がバスに揺られる。
葬儀場の大広間。喪服姿の親族や友人、関係者が畳を埋め尽くしている。朝ちゃんは実里ちゃんの本当の娘じゃないの? 実里ちゃんとはじめさんの娘よ。2人は籍入れてないだけ。姉妹揃って好きな生き方して。時代かね。京子さんも大変よね。私もそんなに調子よくなくて。そうなると朝ちゃんは? まだ決まってないって。朝ちゃん、本当に強いね。たらい回しになっちゃうんじゃない? まだ中学生でしょ。朝の耳には周囲の人々のお喋りが否が応でも入ってくる。
いつしか朝は、大広間に1人で坐っている感覚に襲われた。
朝が我に返る。目の前に坐る槙生に尋ねる。「たらい」ってどうやって書くんだっけ? 本人たちがいる場で参会者が無責任なお喋りに興じるのを黙って聞いていた槙生は、朝の素っ頓狂な質問に突き動かされ、朝の目を真っ直ぐ見据えながら話し始める。朝、ママが心底嫌いだった。死んでも憎み気持ちが消えない。うんざりしてる。でも、私は朝を決して踏みにじらない。今夜だけじゃない。ずっとうちに帰って来ていい。「たらい」はね、臼の中に水を書いて、下に皿。盥回しは無しだ。無力感からそこはかとない笑みを浮かべているしかなかった朝は、彼女を取り巻いていたふわふわした言葉とはまるで異なる、ずっしりとした言葉を槙生から受け取る。一緒に帰りたい。思わず口を突いて出た言葉とともに、朝の目に涙が滲んだ。
夜、城西地区にあるマンションに槙生と朝が荷物を抱えて帰る。槙生は鍵を開けると5分待ってと言って中に入る。玄関には観葉植物。棚の上だけでなく床にも物が溢れている。居間に到達する道を空けようと槙生が物を動かす。どうぞ。槙生が朝に声をかける。お邪魔します。朝は荷物を抱えて部屋に入る。床に積み上がった本を崩してしまう。ごめんなさい。そのままでいい。居間で槙生が説明する。トイレは向こう。これはソファ。冷蔵庫、テレビ。地球儀も。槙生は取り敢えずマットレスを敷けるほどの場所を確保する。あ、風呂沸かすね。槙生がバスタブに湯を張る。落ちる湯の音が蒲団を敷いて横になった朝の耳に届く。
翌日。槙生はスマートフォンを手に取り、笠町信吾(瀬戸康史)に相談しようとして躊躇し、醍醐奈々(夏帆)に電話をかける。今、大丈夫? 大丈夫。槙生、例のエッセイは書いた? そっちに送った。お葬式は無事終わった? 姉の子供と暮らすことになって…。何、その展開。勢いっていうか…。うちの猫3日預かるのも嫌がったのに。その子いくつ? 中学の制服着てたけど。彼女、家に着てからずっと寝てて…。女の子か。ねえ大丈夫? それなりの年頃でしょ。笠町には連絡した? あいつには連絡入れてないよ。そんなこと言ってられないでしょ。
夜。槙生がPCに向かい、執筆する。槙生は朝の寝顔を眺める。
ベッドで寝ていた槙生が、視線に気付いて目を覚ます。制服を着た朝が笑みを浮かべて立っていた。今の中学の卒業式で。一緒に行こうか、途中まででも。慌ててベッドから起き出す槙生。道分かる? 大丈夫。今日、何か食べたいものある? 何でも。行ってらっしゃい。朝を送り出すと、槙生は再びベッドに横になる。
ファンタジー小説で知られる作家・高代槙生(新垣結衣)が執筆中、母親の高代京子(銀粉蝶)から緊急の連絡を受ける。千葉県内のパーキングエリアで姉の高代実里(中村優子)が内縁の夫・田汲はじめ(大塚ヒロタ)とともにトラックに轢かれたという。実里と絶縁していた槙生だが、検視のため遺体の安置された千葉県警荒崎警察署に向かう。動揺する京子は嗚咽するが、実里の娘・田汲朝(早瀬憩)は涙を見せない。目の前で両親を失った衝撃に悲しみが追いついていなかったのだ。葬儀で参会者が遺族たちを前に無責任な噂話をする中、盥回しになると聞きかじった朝が槙生に盥という文字はどうやって書くのか尋ねてきた。槙生は朝が盥回しになる事態は避けなければならないとの使命感に突き動かされ、ずっと家にいていいと朝を連れ帰る。親友の醍醐奈々(夏帆)に姪を引き取ったと報告すると猫を預かるのも嫌がる槙生がと驚かれる。奈々の勧めもあり、元恋人の笠町信吾(瀬戸康史)に後見人として朝を引き取る手続などを相談する。朝は親友の楢えみり(小宮山莉渚)にだけ両親が事故死したことを告げていたが、卒業式のために中学校に行くと、担任に知られ、クラスメイトにも伝えられていた。卒業式の1日だけ、両親がいる、それまで通りの関係性で中学を卒業したいとの望みが絶たれた朝は、卒業式に出ることなく校舎を飛び出し、街を徘徊する。アパルトマンの前に出て朝を待っていた槙生が、遅くなるときは連絡するようにと朝に告げると、朝はうざ、と吐き捨てた。
(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)
ファンタジー小説で著名な作家・高代槙生は絶縁した姉・実里が内縁関係の田汲はじめとともに事故死したため、姪の田汲朝を引き取ることにした。
葬儀場で槙生が朝を引き取ると宣言する場面。交通遺児になった朝の周囲では親族らが朝が盥回しになって可哀想だと無責任なお喋りをしている。朝は突然両親のいない世界に突き落とされた。大勢の中にいればいるほど、かえって孤立感は深まる。朝は盥回しという言葉を聞きかじり、「『たらい』ってどうやって書くんだっけ?」と槙生に尋ねる。作家である槙生は、気が付く。素っ頓狂な質問は、1人でどうしていいか分からない朝が闇雲に、救いを求めて差し出した手に他ならない。そのとき、槙生が魔法使いとして覚醒する。槙生が作家となったのは、魔法使いになって人を救うことを選んだからだ。それを象徴するのが、槙生が盥という字を、臼の中に水と書いて、下に皿。盥と説明することである。言わば綴り。綴り(spell)とは呪文(spell)である。腹を括った槙生に見据えられた朝は槙生との生活を選ぶ。
朝は両親の突然の喪失という過度なショックのために涙をこぼせない。だが、朝が槙生の部屋に泊まった最初の晩、バスタブに蛇口から水を落とす音が室内に響く。バスタブは盥であり、盥を綴って見せた槙生でもある。朝の見えない涙(落水)を確実に受け止めるのだ。
朝は中学を普通に卒業したかった。交通遺児として可哀想な子として見られてくなかった。そもそも朝は母の存在を常に感じていた。だが卒業式に出席するため学校に出ると、担任から呼ばれる。親友のえみりにだけ打ち明けたはずの両親の事故死は、担任を通じてクラスメイトにも知らされていた。朝はえみりに対して激しい怒りを覚え、学校を飛び出す。えみりは責任を感じて何度も朝に連絡を入れる。結局、槙生の助言で朝はえみりとの和解を選ぶ。えみりは朝のためを思ってとった行動だった。朝は後に(同じ高校に進学した)えみりの生き方に対して不用意な発言をすることになる。えみりを怒らせた朝は、中学卒業時のえみりの行動を理解するだろう。
朝は槙生と奈々とのきゃっきゃとした友達づきあいを新鮮に感じる。大人らしくないと思ったのだ。笠町からはワインは二十歳になってからと諭され、実際には大人というものが法で杓子定規に決まるようではないと示される。母と絶縁状態にあった叔母との「違国」暮らしは、大人の国というまた1つの異国が蜃気楼のような存在であることに気付かせる。それはまた朝が大人へと移行する過程である。
(以下では、結末にも触れる。)
遺体に対面するために訪れた警察署でじっと掌を見詰めていた朝。彼女の中学の通学鞄(後にギターケース)には餃子のキーホルダーが取り付けられ、家を訪ねて来た奈々の提案で槙生とともに餃子を作る(包饺子)。そこには包む、掬い取るという意味が重ねられている。
実里は朝に高校卒業後に読ませるために手記を書いていた。そこには「必ず来る、新しくて美しいもの」との思いを込めて「朝」と名付けたと記されている。実里は朝によって槙生との関係改善を期待していたのではなかろうか。
エコーもまた重要なキーワードだ。軽音部の朝が作った歌詞に登場する。歌詞の評価を求められた槙生は、エコーの連想で改作するよう助言する。作家の洞窟のような荒れ果てた暗い部屋は実はエコーチェインバーだった。殺すという憎しみの声が反響して増幅してしまう。
だからこそ、槙生にとって朝(姪)がやって来たのは、文字通り、朝(新しい日)が来ることになったのだ。暗い部屋を明るく変える日の光。朝は、槙生が実里に対して抱く強い憎しみは、強い愛情の裏返しではないかと指摘する。その通りだろう。
スクリーンの中には、美しい人ばかりの住む違国でもある。眼福だ。