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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『TOKAS-Emerging 2024 第2期』

展覧会『TOKAS-Emerging 2024 第2期』を鑑賞しての備忘録
トーキョーアーツアンドスペース本郷にて、2024年5月18日~6月16日。

トーキョーアーツアンドスペース(TOKAS)が国内を拠点とする35歳以下の作家を対象に公募を行い、個展開催の機会を提供するプログラム「TOKAS-Emerging」。『TOKAS-Emerging 2024』では、応募した142組から6名が選出された。第2期は、蟻が巣から砂を運び出す行動をモティーフとした絵画・立体作品を展開する、平松可南子「砂を積む」(1階:SPACE A)、秋田犬がジャーマン・シェパード・ドッグとの交配が進められ、戦後に純化が目論まれた歴史を踏まえた絵画とアニメーションとにより構成される、菊谷達史「犬とFPS」(2階:STORAGE及びSPACE B)、解体されるアトリエに残された裸婦像を用いた映像とインスタレーションを中心とする、戸田沙也加「消えゆくものたちの言葉なき声」(3階:SPACE C&D)の3つの個展を併催。

【平松可南子「砂を積む」(1階:SPACE A)】
《砂を運ぶ》(1620mm×1620mm×40mm)[07]の画面中央には、ハブからリムにスポークが放射状に取り付けられた自転車の車輪のような図像が赤茶で描かれている。巣穴から蟻が放射状に運び出した砂(土)が環状に堆積する様を描いたものと思われる。《雨の日の巣》(326mm×268mm×60mm)[14]には、オレンジで地中に広がるアリの巣が断面図のように描かれている。画面の右下は青い絵具が重ねられているのは、雨水の表現だろう。但し、雨水は、コンクリートの灰色(?)や草地の緑(?)とともに上方からの視点のように見える。複数の視点が重ねられているのかもしれない。右下では画面が半円状に抉られ、厚みのある側面はそちらに向かって削られている。その傾斜は水が溜まる原因を暗示するもののようだ。《噴水とアリの巣の関係》(1620mm×1620mm×40mm)[10]には青い双葉のような図像がクリーム色の画面に表わされている。噴き上がった水が放射状に広がる様を側面図として表わしたイメージである。「双葉」の茎の途中から分岐して袋のような線が引かれている。「双葉」は地中に広がる蟻の巣の表現でもあり、「双葉」の2枚の葉に当たる部分は、地中から運び出した砂(土)の表現ともなる。作家は、水道管(あるいは水面)から空中へと噴き上がる水と、地中から地上へと運び出される砂(土)とにアナロジーを見出すのである。側面からのイメージだけではない。上方から眺めれば、《上から見た噴水》(2050mm×2500mm×70mm)[19]と、《砂を運ぶ》[07]とに、それぞれ描き出されているように、噴水と蟻による砂(土)の搬出動作はともに――その形成にかかる時間が大きく異なりはするものの――環の形を成す。そして一定の形(「双葉」ないし輪)は、厳密に言えば物理的な諸条件などにより、完全に同一であることはない。日常生活における同一でありながら同一でないイメージの現われを絵画鑑賞の場面に置き換えたらどうなるか、が作家のテーマであるらしい。絵画の場合、画面のイメージは――経年変化と言われる物理的影響は不可避だが――変化しない。だが鑑賞の条件によって絵画は変化する(異なって見える)。2つの直方体を重ねた(その間には隙間を設けてある)《砂を積む》(710mm×965mm×2234mm)[05]、立方体の《出入りする》(300mm×300mm×300mm)[09]など、隙間や穴や導入した立体型の絵画は、鑑賞者に様々な角度からの鑑賞を促す。それは、鑑賞条件によるイメージの現われの変化を狙うシグニファイアだ。同様に、平面的な作品ではあっても、出窓に置かれた《際に溜まる水》(87mm×46mm×1mm)[17]や、地面に置いて床に立て掛けた《葉と地》(273mm×215mm×15mm)[20]などは鑑賞者の目線の高さに掛けられるという慣行から離れることで、鑑賞者に覗き込むとかしゃがみ込むとか、通常とは異なる姿勢を取らせるのである。

【菊谷達史「犬とFPS」(2階:STORAGE及びSPACE B)】
展示の趣旨を記したハンドアウトステートメント》[3]、及びリサーチ結果を説明した《犬の歩き方(秋田犬)》[4]・《犬の歩き方(アメリカンアキタ)》[5]・《犬の歩き方(ジャーマンシェパード)》[6]によれば、アジア太平洋戦争末期に軍用犬としての供出を免れるために秋田犬はジャーマンシェパードとの交配が進み、戦後、占領軍の米兵によって連れ帰られてアメリカンアキタとなった。他方、日本では秋田犬の純化――日本の犬の特徴である立ち耳、巻き尾を復活――が進められたという。作家は和犬と洋犬との関係に、日本画と洋画との関係とのアナロジーを見出している。西洋文化流入により西洋化が進むと、その進展に対するある種の危機意識から日本の伝統や独自性を生み出そうとする運動が生じる構造である。「犬とFPS」の中心となるのは、アニメーション作品《ウォーク・ザ・ドッグ》[1]である。展示タイトルに「FPS」とあるように、プレーヤーの視点で犬を散歩させるゲームFPS(First-person shooter)という体裁のアニメーションに仕上げられている。興味深いのは、表示されるプレーヤー(飼い主?)の言葉(日本語)に対して、犬の立場からの受け止め方が別言語(英語)で表記されることである。例えば、「えらいね」に対しては"I became a statue"、
「交換しよう」に対しては"I became the goods"、「いただきます」に対しては"I was made flesh"といった具合に人と犬との非対称性が浮かび上がらされている。だが、もしそう解釈して疑わないなら、人間が犬に対して主人であることを前提にしているからではなかろうか。「えらいね」などのセリフを人間のものと捉える必要はない。そのように断定する根拠は映像にはないからだ。展示タイトル中の「FPS」についても、"First-person shooter"と併記されている訳ではない。あるいは"First-pooch shooter"かもしれないではないか。黒白が反転するアニメーション画面が訴えるのは、むしろ、図と地の黒白が反転するアニメーションが訴えるのは、二者関係に一方的な影響関係ということはありえないということだ。犬に対する眼差しは容易に他者へ向けられるし、自らにも跳ね返ってくる。純血な和犬や日本画なるものは本当にあり得るのか。作品は、そのように問いかけるのである。

【戸田沙也加「消えゆくものたちの言葉なき声」(3階:SPACE C&D)】
手前の展示室(SPACE C)には、平戸眞の手になる、横座りする裸婦のテラコッタ《無題》(350mm×350mm×210mm)[09]が展示されている。映像作品《生い茂る雑草の地に眠る》[10]は、平戸眞のアトリエのある宅地とその周囲の警官を映し出す。区画整理事業のために解体が進み、空地が広がっている。平戸眞のアトリエも解体されるのだ。アトリエだけでなく、室外にも多数の裸婦像が置かれている。木陰に隠れるように佇むものもあれば、塀の脇に打ち棄てられたものもある。奥の展示室(SPACE D)には、平戸眞アトリエを再現してある(《消えゆく者たちの言葉なき声 #1》[07])。壁には時計と窓を映したディスプレイがかかり、13点の裸婦像が置かれている。それぞれが白い布が覆われている。布だけであれば、少女がメロスに差し出した緋のマントのように、不躾な視線から隠すためとも考えられよう。だが、裸婦像は布の上から白いロープで梱包するように縛られている。捕縛されているようでもある。縛ることで布の下に隠された女性の身体の形――頭、型、胸、腰、脚など――が大まかとは言え浮かび上がる。隠しつつ、見せているのだ。そして、ロープは、(全ての像ではないが)他の像へと連なっている。裸婦像が昇天し、白い星となり、互いに結びつくことで星座を形成するのだろうか。映像作品《語られざる者の残響》[08]では、平戸眞のアトリエで、白い大きな布を纏った女性――Maria。絵画や彫刻のモデルであろうか――が、鋏で自らの着衣を切り裂いて、その布でアトリエに置かれた裸婦像を多い、ロープで縛ってく様が描かれる。裸婦像の埋葬の儀式のように見える。次第に女性の布は面積が小さくなっていき、彼女の肌――足や胸――が垣間見えるようになる。全ての作業を終えたとき、一糸纏わぬ姿になった女性は八角形の台の上に腰を降ろす。恰も裸婦像が生身の人間の姿を取り戻したかのように。映像作品《生い茂る雑草の地に眠る》[10]では、亡き作家の子息がインタヴューに応じ、ヒロミやシオリといったモデルについて言及しており、作家が裸婦像に命を取り戻し、その「言葉なき声」を聴き取ろうとしていることが分かる。また、《語られざる者の残響》[08]のラストシーンでは、男性の石膏胸像が裸の女性の姿を見詰めるように置かれている。美の象徴として裸婦を取り上げることは、男性の眼差しと不可分であることが示される。女性の乳房や脚が白い布から覗く蠱惑的なシーンを挿入したのも、裸婦(像)に対する性的な慾を鑑賞者に気付かせるためではなかろうか。

平松可南子「砂を積む」は絵画の正面性という眼差しを、菊谷達史「犬とFPS」は主体と客体とを、あるいは西洋画と日本画とを截然と切り分ける眼差しを、戸田沙也加「消えゆくものたちの言葉なき声」は芸術における男性の眼差しに、それぞれ疑義を糾している。芸術ないし近代的な思考の固定観念に対し、異なるアプローチを迫る点で共通する。