展覧会『早川温人展』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2024年6月10日~15日。
イメージスキャナで撮影した「光画」と、その光画を元にした油絵具で描いた「油画」とで構成される、早川温人の個展。
展示の冒頭に掲げられた《surface》(530mm×410mm)には、横や下を向く白や青の花のいく輪か、あるいは細い茎の一部だけが光で浮かび上がり、他の花や茎は黒い影となって灰色の画面に沈んでいる。技法は「光画」とある。
"photography"の訳語としては「写真」が定着しているが、"photo(光)"と"graph(書く)"から成るため、「光画」の方が語の成り立ちを反映している(例えば、昭和初期に野島康三が中心となって刊行した写真雑誌に『光画』がある)。但し、作家が「光画」と呼ぶ技法は、カメラ(写真機)ではなく、イメージスキャナ、しかもフラットベッド方式のスキャナを用いて対象を写し取るという手法である。
冒頭の花を捉えた《surface》――なお、作家は「光画」を用いた作品タイトルを"surface"で統一している――において、花に光で浮かび上がる部分と暗い影となる部分との差異が生まれたのは、原稿台の板ガラスに接着した部分が明るく読み取られる一方、接着していない部分が黒い影として認識されたためであった。また、背景に黒い線が無数に映り込んでいるのは、キャリッジにある線状イメージセンサによる読み取りにより生じたものだ。
作家のイメージスキャナによる「光画」が、カメラによる写真と異なるのは、まさにイメージセンサによる読み取りにある。カメラが(原則として)一瞬かつ単焦点で対象を切り取るのに対し、イメージスキャナはイメージセンサが移動しながら図像を読み取っていくため、デイヴィッド・ホックニー(David Hockney)の(フォトコラージュから発展した)ムーヴィング・フォーカス(moving focus)を彷彿とさせる。移動、時間、変化が画面に持ち込まれるのである。
《Shells》(662mm×910mm)は、首元に手を添えた男性の顔を捉えた油彩画――差異は「油画」と呼ぶ――である。皺だけでなく毛穴まで捉える肌に対し、落ち窪んだ眼窩、溶けていく指先、歪み伸び広がる顔面の左側や手。フランシス・ベーコン(Francis Bacon)の肖像作品を連想させるデフォルメされた人物の姿は、「surface」シリーズ同様、フラットベッド方式のイメージスキャナをモデルに当てて読み取ったイメージを油絵に仕立てているためである。かつてヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)がカメラ・オブスクラ(camera obscura)を用いて制作し、エドガー・ドガ(Edgar Degas)が写真をもとに瞬間を描き出したことが想起されよう。モデルの顔面左側に広がる白い流体は、鼻や口などから発せられたエクトプラズムのようである。これは、男性の上半身をほぼ正面から捉えた「光画」《surface》(530mm×410mm)などに見られる白い靄同様、人物をスキャナで読み取る際にガラス面に附着した皮脂によるものだ。モデルの皮膚から分泌されたという点を踏まえれば、身体から発せられるという「エクトプラズム」に近しい。手垢が付いた表現という言い回しがあるが、皮脂を描いた画面を陳腐な表現とは言えまい。
《不可知の側面》(1620mm×2273mm)では、年を取った男性の横顔とそれと線対称となるような白い顔とが1枚の画面に描き出されている。エクトプラズムが発されたようでもあれば、脱皮したようにも見える。イメージスキャナをモデルの顔の片側から反対側へと移動させてイメージを読み取ったのであろう。イメージセンサに加え、スキャナ自体の移動により、一方のプロフィールとともに同時に捉えた反対側のプロフィールを指して「不可知の側面」と言うのであろう。物事を捉えるには、揺れ動くことのない静止したイメージが都合がいい。紋切り型の表現も分かりやすさのためなのだ。だが手垢が付いた表現は対象を捉え損なっている。現実は絶えず変化し不安定である。分からなさは得体の知れ無さ、不気味なものである。常に不可知の側面を念頭に置いて対象を捉えよとネガティヴ・ケイパビリティの重要性を訴えるのが、作家の光画やそれに基づく油画なのだ。