映画『ドライブアウェイ・ドールズ』を鑑賞しての備忘録
2024年製作のアメリカ映画。
85分。
監督は、イーサン・コーエン(Ethan Coen)。
脚本は、イーサン・コーエン(Ethan Coen)とトリシア・クック(Tricia Cooke)。
撮影は、アリ・ウェグナー(Ari Wegner)。
美術は、ヨン・オク・リー(Yong Ok Lee)。
衣装は、ペギー・シュニツァー(Peggy Schnitzer)。
編集は、トリシア・クック(Tricia Cooke)。
音楽は、カーター・バーウェル(Carter Burwell)。
原題は、"Drive-Away Dolls"。
1999年。フィラデルフィア。バー「シセロズ」のネオンサインは真夜中を過ぎても点っている。店内のテーブルに坐るサントス(Pedro Pascal)がスーツケースを抱え、不安そうに入口を覗き見る。時間を確認する。ウェイター(Gordon MacDonald)がサントスに声をかける。お代わりは? ロゼ? いや、もう遅くなったから。勘定を。勘定だ。
スーツケースを抱えたサントスがバーを出る。ウェイターに付けられているのに気付いたサントスは走って脇道に折れるが、生憎行き止まりだった。ごみ箱の蓋を盾にするサントスにウェイターが迫る。ケースを寄こせ、サントス。俺のもんだ、下がれ! ケースを寄こせ、サントス。止まれ、悪党! ケースだ、サントス。絶対にごめんだ。ウェイターは蓋を取り上げると、投げ捨てる。ソムリエナイフを取り出しスクリュ-を首に突き刺す。続いてペンも首に突き立てる。通りに車が急停車し、スーツ姿の男が降りて来て、ウェイターからスーツケースを受け取ると、車の人物にスーツケースを渡す。男は鋸を受け取ると、ウェイターがサントスの頭を摑んでいるところへ駆けて行く。
フィラデルフィア市庁舎の上に立つウィリアム・ペンの像にまでサントスの悲鳴が届く。
スーキー(Beanie Feldstein)の部屋。居候のジェイミー(Margaret Qualley)がカーラ(Annie Gonzalez)を連れ込んでいた。ジェイミーのクンニリングスでカーラが絶叫している最中に電話が鳴るが、すぐに自動応答に切り替わる。スーキーもジェイミーも出られません。メッセージをどうぞ。ジェイミー、いるの? あなたとスーキーは今夜の集いに行く? 知り合いのいないところにいたくはないの。カーラが行くか知ってる? とにかく、連絡してね。スーキーと順調だといいわ。マリアン(Geraldine Viswanathan)でした。
職場のデスクで電話を終えたマリアンに、バート(Sam Vartholomeos)が声をかける。明日の晩は予定ある? フィッシュのコンサートがあるんだ。何? 即興演奏するバンドがシヴィック・センターでライヴをするんだ。魚じゃないよ。フィッシュの綴りは分かるの。ごめんなさい、約束があるの。凹むなあ。とりま…。その表現はやめてくれる。どんな表現? とりま。表現じゃないよ。じゃあ何なの? 言葉。その言葉を使わないで。そもそも言葉ですらないわ。分かったよ。水曜は空いてる? 近所に「モンタナズ」って言う新しいレストランができたんだ。流行の料理を出すんだけど、すごく美味いんだ。無理よ、水曜に約束があるから。水曜日もか。普通は約束なんて言わないだろ。話し方を教えましょうか? 頼むよ。事実は変わらないの。約束があるってことか。その通り。
ジェイミーがカーラのクンニリングスで悶えていると、電話が鳴る。スーキーもジェイミーも出られません。メッセージをどうぞ。ジェイミーが集中できないのでやむなく電話に出る。マリアン、ヤッてる最中に電話しないで。今晩、私は行くわ。セックスしてるの? スーキー? 電話の主はマリアンではなくスーキーだった。誰がいるの? 誰もいないわ。オナニーしてたの。カーラが背後で絶叫する。ヴィデオの音量を下げていい?
クラブ「シュガー&スパイス」には、多くの女性が集まっていた。ブラウスに青いジャケット姿のマリアンが所在なく立っていると、カーラに声をかけられる。駄目よ。何が? 着てるもの。仕事からそのまま来たから。ジェイミーは? シャツを脱いで。胸を見せろと? 服を売りに来た訳じゃないわ。じゃあ何し来たの? 付き合いよ。そのときステージで司会がショーの開始を告げ、ジェイミーを呼び込む。身体に付けた塩を舐め取るパフォーマンスのコンテストでジェイミーは前回覇者だった。ジェイミー、どこから始める? まずはここ。ジェイミーが胸に手をやる。あいつをステージに立たせるな。マリアンの横にスーキーが現われた。スーキー、彼女は人を楽しませるのが好きなのよ。次は、ここ。ジェイミーはタンクトップを捲り上げ、乳房の下を示す。あいつが誰とヤッてるか分かる? 誰とでも付き合ってる訳じゃないでしょ、あなたと付き合ってるんだから。ジェイミーのパフォーマンスに歓声が大きくなる。ジェイミーはデニムのパンツのボタンを外し、下腹を見せる。彼女は自由な精神の持ち主よ。そいつが問題なの。ジェイミーのパフォーマンスがますます過激になる。スーキーは嫉妬心に耐えられず、観客を掻き分けステージに駆け上がる。スーキーがジェイミーを殴り倒す。
マリアンの部屋。カウチにジェイミーが横たわっている。愛にはうんざり。詩人が愛に浮かれるのは知ってるけど、21世紀になろうっていうのにレズビアンに愛なんて関係ないでしょ。マリアンが腫れた場所に当てるようジェイミーに冷凍食品を持って来る。ニンジンと、豆は解凍してある。明日スーキーの部屋から出て行くの手伝ってくれたらさ。その件に口出しはしないけど、問題があって。どんな問題? 内面の問題。内面の問題? 他にどう言っていいか分からない。どうしたら内面の問題なんて抱えちゃうわけ? 魂を救済するために奥深くまで手を突っ込み、恥も外聞も無く周囲に投げつけ、自らを辱め、ひれ伏して泣き、自我が崩壊、なんてことないでしょ。豆は没収。荷造り手伝ってよ、それで2人でさ。無理。出て行くから。どこへ行くの? フロリダのタラハシー。何でタラハシー? 伯母のエリス(Connie Jackson)が住んでいるから。伯母さんが引っ越せないの? タラハシーはいい所よ。素晴らしい自然があるもの。マイアミみたいにけばけばしくて品がない所じゃないわ。伯母さんとセントマークス野生動物保護区に行って野鳥を見るの。よくそんなこと思いついたね。自分の問題で職場の人に不機嫌に当たってしまっていて、そんな自分に我慢がならないだけ。一緒に行こう。私も休暇を取って車の輸送代行しながらパーティーするつもりだったし。一緒にタラハシーで野鳥見よう。車の輸送代行って? 無料で片道だけ自動車借りちゃう。顧客指定の目的地まで車を運転して届けてあげることでね。あなたがエリス伯母さんのこと気に入るとは思えないけど。何言ってるの? 私が麦藁帽で現われれば絶対気に入られるって。なんて魅力がある娘かしらねって。自信ないわ。悩んでても始まらないでしょ。すごく楽しくなりそう気しかしない。明日はスーキーの部屋から荷物を運び出すのを手伝って。スーキーのいない間に、だから大丈夫。
スーキーが泣き叫びながら壁に取り付けたディルドを取り外している。ジェイミーとマリアンは困惑し立ち尽くす。
1999年。フィラデルフィア。ジェイミー(Margaret Qualley)は、交際相手のスーキー(Beanie Feldstein)の部屋に居候していたが、カーラ(Annie Gonzalez)を連れ込んで浮気していたことがばれてしまう。ちょうど友人のマリアン(Geraldine Viswanathan)が精神的な問題から職場を離れ、タラハシーの伯母のエリス(Connie Jackson)の下へ身を寄せると知ったジェイミーは、車の輸送代行で交通費を浮かせつつ一緒に旅行しようと言い張る。自動車輸送業者カーリー(Bill Camp)を訪ねたジェイミーとマリアンは、折良く明日いっぱいまでにタラハシーへ輸送する注文が入ったため、依頼を引き受けることができた。トランクに愛で地獄へ直滑降と落書きしたクライスラーのダッジアリアスに荷物を詰め込んだジェイミーとマリアンがタラハシーに向け出発する。その頃、フリント(C.J. Wilson)とアーリス(Joey Slotnick)を従えた男(Colman Domingo)がダッジアリアスを探してカーリーの下に乗り込んでいた。車のトランクにはサントス(Pedro Pascal)から回収した物が隠してあった。彼らは車の行方を追う。
(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)
風変わりで魅力的なキャラクターたちの掛け合いが楽しいコメディ。気軽に楽しめることができる。ディルドに限っては直接的だが、快楽の表現はサイケデリックな映像による暗示に留められる。
交通費を浮かせようと、自動車の輸送代行(driveaway)でフィラデルフィアからタラハシーまで旅行するジェイミーとマリアンが、自動車に隠された物を巡るトラブルに巻き込まれる。
少女時代のマリアン(Samsara Leela Yett)はトランポリンをしていて隣家で裸で日光浴をしている女性(Savanna Ziegler)に魅せられる。板塀に穴を開けて、プールで泳ぐ女性の姿を覗き見る。少女の性的な欲求の目覚めであり、それは女性に対して向けられたものであった。女性は水と結び付けられている。
マリアンは女性に対する欲求を隠す。その象徴が首元まで覆うブラウスと青いスーツである。制服のような衣服はヘテロセクシャルの世界を泳ぐための防護服であり、男性社会における拘束衣でもある。マリアンは自らの内的な欲求に反して常識に従おうとしている自分に嫌気が差す。恐らくは自由なジェイミーに触発されたからだ。
職場で「制服」のような着衣で男性からの誘いを徹底して拒絶する反抗的なマリアンに対し、自室(居候だが)で裸で女性とセックスする従順なジェイミー。2人は対照的に描かれる。だが、ジェイミーが21世紀にもなって愛なんてと腐してみせる、その愛によって、2人は接近することになるだろう。ジェイミーが輸送代行の車のトランクに書いた言葉のように、愛のために地獄へ直滑降である。
ペニスを型取りしたディルドはトロフィーである。男たちはそれを巡って争うことになる。権力を手中に収めれば、恰も半永久的に怒張した男根のように、銅像となって立ち(勃ち)続けることになるだろう。馬鹿馬鹿しいかもしれない。だが、それこそ権力を奪い合う男性社会の、そしてその勝者のメタファーなのだ。
(以下では、結末にも触れる。)
頭部もまたペニスのメタファーであり、トロフィーと言える。ディルドと切断された頭部がトランクに隠された車を輸送代行するジェイミーとマリアンは、知らず知らずのうちに男性の権威の運び屋となっている。女性は子供を産むことで男性の権威(あるいは財産)を伝えるメディア(母胎)であることを象徴している。トランク=空洞は膣(≒子宮)であり、そこにペニスが挿入されたのだ。仕事(labor)とは出産(labor)でもある。タイヤ交換の必要から偶然にディルドと切断頭部に気が付いたジェイミーとマリアンは、それを追う連中に対し金銭を要求すること――出産の金銭的評価のメタファーとも言えよう――を思いつく。そして、ディルドを渡す前にセックスに用いる。2人は男根を用いることで男性社会のゲームのプレイヤーとなったのだ。だがそれは男性の権威を代行するだけのことだ。2人はゲームに参加することで、男性社会のシステムを温存させることになる。
目指すべきは、男性社会のシステムを脱することである。そのためには、半永久的に硬直した男根に価値を見出す剛体の存在論から、変化を受け容れる流体の存在論へと発想を転換しなければならない。ジェイミーが密かに複製していたディルドを置き忘れて新天地へと流れて行くジェイミーとマリアンは、剛体の存在論から流体の存在論への発想の転換に成功していたとは言えまいか。彼女たちはもはや男性たちの車の運転を代行するのではなく、自らの行きたい場所へどこへでも自由に向かう。確かに自らの人生のハンドルを握っているのである。
ヘンリー・ジェイムズ(Henry James)の『ヨーロッパ人(The Europeans)』をマリアンが読む。また、追跡チームを率いる男が同じくヘンリー・ジェイムズの『金色の盃(The Golden Bowl)』を読む。ヘンリー・ジェイムズが鍵となるのは間違いないが、意図を汲めなかった。