可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 坂本久美子個展『潮騒』

展覧会『坂本久美子展「潮騒」』を鑑賞しての備忘録
JINEN GALLERYにて、2024年6月25日~30日。

真鶴の景観をモティーフとする絵画で構成される、坂本久美子の絵画展。作品の多くには青い空が描かれる。ペンキで塗ったようなベタ塗りの青もあれば筆触を活かした水色もある。その青に導かれて作品を鑑賞していくうち、いつしか宇宙にまで導かれていく。

《飛ぶ馬 Ⅱ》(273mm×220mm)の画面下部には、長らく捨て置かれたと思しき何の表記もない広告枠があり、色褪せたモービルオイルのペガサスのマークだけが取り残されている。看板の左上に食み出して設置されていたペガサスには蔦が絡み、恰もペガサスが縛られて飛び立てなくなったかのようである。かつての看板の背後には植物の旺盛な生命力を示す青々と繁った樹冠が、ペンキを流したような青空に映える。下から見上げるように描かれたこと、ペガサスの飛躍に呼応するように右上に向かって高くなる緑、さらに画面の半分以上を占める青空が飛ぶ馬をお膳立てしている。古代遺跡を描いたジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(Giovanni Battista Piranesi)に擬えるのは飛躍があろうか。破れた低い金網フェンスや錆びた配管に囲われた窓を描いた《窓》(140mm×180mm)、コンクリートの割れ目から草が伸びた道沿いに立つ蔦に覆われた壁にあるドアを描いた《水色の扉》(180mm×140mm)など、廃れていく建築、廃墟に対する眼差しは確かにピラネージと共有する。化石燃料の会社のロゴ、しかもギリシャ神話をモティーフとしたペガサスなら、古代ローマにも「古さ」でも決して劣るまい。ところで、《水色の扉》では画面左側から右上に向かう金属製の外階段の先に蔦が覆い始めている水色の扉がある。階段を上ると、空色の扉が開けられるのを待っている。《窓》でも配管は左下から右上へ向かって伸び、なおかつ破れた金網フェンスの奥に藍色の窓がある。《飛ぶ馬 Ⅱ》と同様、《水色の扉》や《窓》には(右上への)上昇、さらには空や宇宙への飛躍が封じ込められているのである。屋根や給水塔、アンテナの上に拡がる青空を描いた作品(180mm×140mm)に《宇宙》と題しているのがその証左である。

真鶴駅のホーム上から線路を描く《つづく》(140mm×180mm)では、跨線橋や架線の枠の連なりによって奥へと導かれる。あるいは、水色の壁が印象的な地下道を描く《すすむ》(140mm×180mm)では、ポスターの連なり、手摺や点字ブロックによって奥へと視線が誘導される。大きな木の陰になった道の向こうに覗く強陽差しを浴びた上りの階段を描く《夏の日》(273mm×220mm)や、建物と外階段の奥に覗く青空を描く《影が落ちる》(180mm×140mm)においても、同様に奥への志向が表現されている。
ところで、《すすむ》や(手前の建物の影の奥に見える屋根付車庫の車を描く)《休む》(140mm×180mm)といった題名から連想されるのは絵双六である。絵双六において目指すのは「上り」であるが、「上り」までの過程こそが楽しまれる。「上り」自体は何も無い。「上り」には宇宙が拡がっている。

奥性は最後に到達した極点として、そのものにクライマックスはない場合が多い。そこへたどりつくプロセスにドラマと儀式性を求める。つまり高さではなく水平的な深さの演出だからである。多くの寺社に至る道が屈折し、僅かな高低差とか、樹木の存在が、見え隠れの論理に従って利用される。それは時間という次数を含めた空間体験の構築である。神社の鳥居もこうした到達の儀式のための要素に外ならない。(槇文彦「奥の思想」槇文彦『見えがくれする都市』鹿島出版会〔SD選書〕/1980/p.220-221)

時間という次数を含めた空間体験の構築。それこそが作家の絵画の本質である。