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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 百瀬玲亜・森夕香二人展『萌芽』

展覧会『百瀬玲亜・森夕香展「萌芽」』を鑑賞しての備忘録
日本橋髙島屋本館6階美術画廊Xにて、2024年6月19日~7月8日。

花や胞子など植物のモティーフが取り入れられている点と、伸びやかな器形ないし画面に共通性が看取される、百瀬玲亜の漆芸と森夕香の絵画とを展観。

百瀬玲亜
「発源」シリーズは主に球根のような塊から胞子が生えたような作品で、「孵果」シリーズは主にひょろひょろと長い茎の先に花が咲く形態の作品で、それぞれ構成されている。もっとも、種と思しき藍色の膨らみからすうっと茎が上に伸び、途中から赤褐色に変じて花を咲かせる《発源》があったり、球根から直接同じくらいの大きさの花を咲かせる《夜明けの息吹》や《夜に佇む》に似た作品に、塊から直接小さな花を咲かせる《孵果》があったりと、「発源」シリーズ・「孵果」シリーズの作品を冒頭に掲げた形の特徴で弁別することはできない。「植物」を外形の特徴のみで分類していた近代とは打って変わって、塩基配列の比較など先端の科学的知見を加味して分類する現代の状況を反映するようである(ドメイン(regio)だのアーケプラスチダ(Archaeplastida)だの、生物の教科書にもやたら片仮名言葉が増えている)。いずれにせよ、蓄え、突き出し、伸び、開く形態とともに、どこまでも続くような深みのある漆の質感とにより、発芽や開花が象徴する生命現象の力強さ、不思議さ、果ては気味の悪さに至るまでが表現される。

森夕香
《思考のような花》では、青と黄が差した白い大きな花のみ6、7輪が散らされ、緑青の画面を覆っている。白い花は液体のように表わされ、花弁が隣の花に流れ込んで溶け合うように繋がっていく。タイトルから、シナプス接触構造を花で表現したものと解される。あるいは、アナロジーによる連想により思考が展開されることの表現であろうか。《黄昏の庭》には、ギザギザとした葉を持つ極めて細い茎からそれぞれ水色とピンクの花を咲かせる2つの同種植物が並べて描かれる。1枚花弁及び1枚の葉で2つが癒着、融合しているのが特徴である。シナプスというより交接・交合に近い。《ヒマワリ》の藍色の画面に表わされた「ヒマワリ」は、前屈みになって両腕で自身の身体に巻き付ける人物のようだ。ヒマワリならば単眼で描かれそうな「顔」(筒状花部分)は、赤塚不二夫が描いたような両眼が繋がった形を中心に造型されている。《木のように》に描かれるのは、二重螺旋のようなうねうねとした「人物」で、繋がった両眼の表現に加え、五指のある足が描かれる。植物と人間とは等価である。《明るい共鳴》では黄色い花と並んでそれと融合するような人の横向きの身体が描かれ、《おとなしい変容》では、植物的形態の人物二人が口や手を通じて融け合う。同じモティーフを描いた《交換》とともに、明らかに交接の表現である。菌糸による構造体内部に存在する藻類の光合成に依存する菌類という地衣類のように、独立した存在が分かち難く結びついている様を描き出したのかもしれない。

 共生という関係の性質にも増して、特に重要なのが、新たな共生観が要請する個体疑念の見直しだろう。あらゆる生物が多孔質で、相互に依存し、「種を超え」「界を越えた」同盟にすら適応すると考えなければならないのだ。生命は穴である。生命は混乱である(ダナ・ハラウェイ)。生物はつまり、その本性から見ても、一個の政治なのだ。種と種のあいだにあって、界と界をつなぐ政治としての世界。休みなく流動する力学的配置をもち、「全世界を覆う蜘蛛の巣」が、そのネットワークを通じて種の進化に加担するのだ。(ヴァンサン・ゾンカ〔宮林寛〕『地衣類、ミニマムな抵抗』みすず書房/2023/p.272)

百瀬玲亜の漆芸と森夕香の絵画とは、植物をモティーフに生命を描き出すだけでなく、截然と切り分けることのできない世界の深みを表現する点でも共通していると言えよう。