展覧会『五十川祐「疎な破線」』を鑑賞しての備忘録
藍画廊にて、2024年7月1日(月)~7月6日。
モルタルを支持体とした絵画10点で構成される、五十川祐の個展。
《いつか消える他人の目》(158mm×227mm)は、顔のうち目元辺りだけを、水平ではなく左下と右下とを結ぶ対角線上に、椿油を用いて壁の染みのように描き出している。《いつか抜けるまつ毛》(158mm×227mm)では、顔のうち左目と左耳の辺りだけを、ほぼ水平に、椿油とアクリル絵具で描き、睫毛の黒と目玉の赤が印象的である。
《ある役者 #3》(455mm×530mm)には、淡いレモン色を背に、椿油で顔をやや右に向けた人物の胸像がシルエットのように描き出されている。「グレイ」と呼ばれる宇宙人として普及したイメージに近く、捉えられるのは両眼くらいである。《ある役者 #2》(410×318mm)には、レモン色を背景に、灰色の影のような人物の胸から上が右斜め前から捉えられている。こちらは目に赤が差されてるのが印象的である。
モルタルを支持体とすることで、絵画は壁として提示されている。上記4作品――とりわけ《いつか消える他人の目》――は、壁に人の姿が見える(見えてしまう)という状況を表わすものではなかろうか。
《作曲者不明の楽譜》(300mm×450mm)には、画面を横断するように置かれた白い左腕と、腕を恰も鍵盤のように弾くような別の両手(赤いマニキュアが印象的)を添えた場面が描かれる。白い左手の奥側には青やピンクが塗られているのに対し、手前側には塗られていない。《いつか消える他人の目》などの作品が壁に人影を見てしまうように、ここでは色鮮やかな壁(?)に楽譜(音楽)を見出している。「作曲者不明」なのは、楽譜たる壁(?)は能動的に作曲した主体が存在しないためではないか。飽くまでも楽譜に見えたのである。また、鍵盤に擬えられる白い左腕は、「演奏する」両手に比して余りに白く、石膏(像)――生きていない――のようだ。
《You don't response it》(318×410mm)は、モルタルを塗るラス網の部分を塗り残した赤い画面に、顔を鳩の形に組んだ両手で覆う人物を焦茶の線で表わした作品である。ラス網が金網フェンスの境界を作るとともに、人物の顔を覆う仕草により、二重の遮蔽のイメージを生んでいる。《返事のないメモ》(273×220mm)の茶色い画面には、左手だけが表わされている。2作品の題名は返事(response)が無いという点で共通する。
《See on the other side》(455mm×638mm)にはピンク、紫、青、オレンジ、黄などがある程度分けて塗られている。モティーフは極めて曖昧であり判別できない。画面中央で縦に罅が入っているのと、画面の周囲からラス網を覗かせているのが特徴である。モルタルを塗った壁であることが強調されているようだ。題名の"the other side"とは彼岸のことだろう。現実の「壁」(ラス網)の向こう側へと罅が誘うのである。
俯瞰するということは、大地を文字として読み解くことだ。狩猟採集すなわち食糧の獲得は生存に不可欠である以上、自身を上空から眺める能力――地図を構想する能力――が言葉を遡ることは確実である。眼にははじめから、自身から離れて自身を見る能力が、付随していたと考えなければならない。そうでなければ見る意味がない。これと、相手の視点――母の視点、父祖の視点、敵の視点――に立つという能力は不可分であると思える。捕食する、捕食される、番う、番われる、追う、逃げるは、自己保存、種族保存にじかに関わる以上、見ると同時にはじまった快楽であり苦痛であると考えなければならない。
(略)
いわば、生命は眼の獲得と同時に、自分から離れることを強いられたのである。この距離、この隔たりが、精神と言われるもの、霊といわれるものの遠い起源であることは、私には疑いないことに思われる。
私とははじめから、相手のこと、外部のこと、なのだ。鳥が魂の比喩として登場するのは当然なのだといわなければならない。私とは外部から私に取りついたもののことなのだ。これが、魂が身体を支配するという人間の劇、主と奴の劇がはじまる背景だが、それがすでに個体の次元においてはじまっていることに注意すべきだろう。社会は個体の次元においてすでにはじまっているのだ。それも文字はもとより、言葉のはるか以前、おそらくは眼が誕生した段階からはじまっているのである。眼は対話の誕生、自問自答の誕生なのだ。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.205-207)
壁の染みなど「疎な破線」が何かに見える。それは、あらゆる読み取りの選択肢から何かを選び取ってしまうことに他ならない。その選択は対象に対する自らの投影である。「私」も「相手」も魂からすれば等しく外部だからである。従って、コミュニケーションとは「作曲者不明の楽譜」を読み取る「返事のないメモ」に等しい。
したがって、私とはすでに決定的に媒介されているもの――いわば複数――なのであり、それを唯一の起点として世界を考えることなどできはなしない。私を起点に世界の存在を考える特権など、私にはないのだ。私が誰かの生まれ変わりでないなどとどうして断言できるだろう。そもそも、私とは両親の生まれ変わりにほかならないではないか。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.205-207)
「私とはすでに決定的に媒介されているもの」、すなわち誰もが「ある役者」である。
見るという行為の次に、見つめるという行為、すなわち凝視が続くことからも、眼が精神の起源であることが納得される。見るから見つめるへの移行は、見るべき対象が、見えるものから見えないものへ移行したことを示す。見えないものとは、とりあえず、見られているその対象が何を考えているかの、その眼には見えない考えのことであるといっていい。それを意図といっても意志といってもいい。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.205-207)
作家は「見るべき対象」を「見えるものから見えないものへ移行」させようとしているのではないか。それを象徴する作品が《See on the other side》である。
言語革命が人間にもたらした最大のものは、死の領域、死者たちの広大な領域である。このいわば正の領域に対する負の領域は、とりあえずは、俯瞰する眼の必然として、あたかもその俯瞰する眼を補完するかのように姿を現わしたといいっていい。追うものと追われるものはいわば互いの俯瞰する眼の高度を競い合っているようなものであり、より高い視点に立ち、より広い視野を持つものが他を制するのである。より高い視点に立ち、より広い視野を持とうとする欲望が圧力となって、鳥は空を飛び、人間は直立歩行をはじめたと考えたくなるほどだ。そしてその眼は地平線、水平線の向こうを望むようになる。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.479)
現実の罅割れの先には彼岸の無限の領域が広がっている。その彼岸に立つ眼差し(=思考)を作家は促しているのである。