展覧会『第28回大学日本画展「トリフォリウム」女子美術大学日本画修士在学生・修了生展』を鑑賞しての備忘録
UNPEL GALLERYにて、2024年6月29日~7月14日。
慶野智子、須藤緋奈子、和田紗代子の3名の作家を紹介する企画。
慶野智子
《異端児》(1818mm×2273mm)は漆黒の画面の中にワニの頭部を前肢辺りまでを含めて描いた作品。外鼻孔、口から覗く歯、眼、鱗などが描かれる。盛り上げ技法による後頭鱗板など体表上部は黒い鱗で覆われ、口の周囲の網状や頸部附近のタイル状など体表下部は白い鱗で覆われる。その黒白が対象的である。上部の暗い鱗が周囲の闇に溶けていく中で浮かび上がる、縦線状の瞳を持つ眼は月のようである。力強い歯の隙間に覗く腔内(一部朱の舌(?)も見える)は周囲の闇より暗い。深淵のようである。それにしても何故「異端児」なのであろうか。陸上に、あるいは水中に生息する存在にとっては、水面の内外、水陸を自在に行き来できる存在は異端であることになるのであろうか。明暗が同居し、清濁を併せ呑む黒白半々のワニは、生の真理を象徴し、その深みを示す。
《視》(2273mm×1818mm)は、逆さ吊りの水鳥を描く作品である。淡い水色の画面は、金網フェンスの菱形が表わされた上部の空中と、無地の下部の水面とが描き分けられている。左上の網を突き破って侵入したものの、網に引っ掛かり身動きが取れなくなってしまった。左の翼が水中に垂れ、嘴が水面に垂直に突き立つ。その水鳥の頭部は水面に揺れる鏡像としても描き出されている。なぜ「視」なのか。水鳥に対し、その鏡像は空虚であるが、水鳥が見つめるのはその虚像だけである。液晶画面ばかりに眼を向け、あるいは見栄え(「映え」)ばかりを気にする人々を"lame duck"と揶揄するとも言えそうだ。だが堕天使もかつては天使であったことを想起すべきだろう。
《異端児》と《視》とは隣同士で展示されている。《異端児》の水平に対し、《視》の垂直の対比が印象的である。前者は涅槃図的、後者は磔刑図的である。ならば、日本にいない生物(ワニ)を仏教(東洋)的画面に、日本にいる生物(水鳥)をキリスト教(西洋)的画面に、という反転した関係が見られる。生と死とは入れ籠である。
須藤緋奈子
《昆虫採集》(1303mm×1788mm)には、草地に立つ4人の少女たちが描かれる。4人はいずれもワンピースを着てポシェットを肩から提げている。ツインテールやポニーテール、帽子を被った少女もいる。左側の2人は捕虫網を手にしている。夕闇が迫るのか、ピンク色の雲が浮かぶ淡い空には、蝶と蜻蛉が1匹ずつ舞う。右側の2人はショーウィンドウを覗くように、紫色と褐色のピンクが波打つような得体の知れない空間に向かっている、そのうち右側の1人は鑑賞者の側を振り返っている。得体の知れない空間は異世界へ抜ける「ワーム」ホールのようである。ここではないどこかへと飛び立ちたい少女たちの願望が引き寄せたのであろうか。だが、彼女たちこそ鑑賞者によって眺められる絵画という閉鎖空間に閉じ込められた存在であり、虫籠の蝶なのだ。
《昆虫採集》の少女達が虫籠の蝶であると解釈する根拠は、その隣に展示された《cake in cake》(1620mm×1303mm)にある。蝋燭を立てた円卓に置かれた巨大なケーキを囲む4人の少女を描き出した作品である。緑、青、黄、の縞のワンピースをそれぞれ身につけた少女たちは、ケーキを切り分けている。白いテーブルクロスを掛けた円卓はクリームを塗ったケーキを、卓上のピンクのコップは苺を、そして彼女たちは蝋燭の似姿であり、ケーキの中にケーキ(cake in cake)という入れ籠の作品なのだ。
《ショートケーキ》(970mm×2606mm)は、生クリームを塗ったホールのケーキを斜め上からの角度で横長の画面に表わした作品である。波のような生クリームの上に達磨のような苺と柱のような蝋燭が立てられている。波に呑み込まれたような横たわる少女と、脚を抱えて蹲る苺のような少女とが中心のモティーフである。ケーキは簡単に崩れてしまう狭い世界を象徴し、生クリームの波、蝋燭の縞、ケーキの円が回転運動を連想させる。脆く閉鎖的な世界で思い悩み――堂々巡りの思考で――身動きが取れない少女の姿を表わすのだ。
和田紗代子
《青のティータイム》(1120mm×1940mm)の画面左手前には、ティーセットが並べられた円卓が描かれている。その傍らには吹き込む風に揺れるカーテンのある窓、さらに奥の隅には飾り台が見える。円卓のクリーム色のテーブルクロスの上には、やや濃いクリーム色でバラを刺繍したテーブルクロスと、バラのプリントの2種のテーブルクロスがさらに敷かれている。左側のプリントのテーブルクロスは卓上で柱のように立ち上がる。それは傍に生えているバラを凌ぐようである。室内にバラの木があるのだ。円卓の右にも複数の樹木が立ち、その向こうには建物の外壁と窓とが覗いている。室内(屋内)と室外(屋外)とが地続きなのである。その内でもあり外でもある空間は淡い群青で表わされている。それはブルーアワーの表現であろう。日の出前でも日の入り後でもあり得るのだ。
回転台に設置された石膏粘土による立体作品《夢》(80mm×83mm)には、眠る人物の頭部の中(後ろ)に風景が表現されている。現実と夢とは地続きであり、両者に明確な区別は無いのである。
《目映く》(1818mm×2273mm)は、直角に折れ曲がる木橋ないし縁側と、その周囲の桜樹や花などを盛り上がった複数の不定形の画面に表わした、半立体的な作品である。木橋は縁側のようでもある。満開の桜の木の傍らには沓脱石があり、木橋=縁側に上がり込んだ女性が横になって寝ている。木橋=縁側は周囲の花樹の光を受けて虹のような色を呈するが、角を曲がると、藍色の薄闇の世界に変じ、壺や鎧兜が置かれている。縁側自体が室内外の境界の存在であるが、この縁側は夢と現実の、あるいは過去と未来との架け橋のように機能している。
《誰も知らない空中庭園》(1620mm×1303mm)は、工事が進行する道の向かいに建てられた、仮設の資材置き場を描いた作品である。画面中央に斜めに道が通り、その奥には建築現場が見える。道の手前の植栽には鉄パイプを組んで波板を被せた簡素な構造物がある。パレットやビニールシートなどが敷かれず土が剥き出しである。資材も見当たらない。周囲を覆っていた防塵シートも外されてだらしなく垂れている。既に用済みになったのであろうか。周囲には草木が茂っている。波板の上には苔や草花が生えている。これが空中庭園であろう。どこから飛んできたのか、3色の風船が「空中庭園」の上を覆う樹木によって留められている。1人の女子学生(?)が通りかかるが、決して視界に入ることのない「空中庭園」に眼を向けることはない。「空中庭園」を見るためには風船である必要がある。なぜなら「空中庭園」は桃源郷であり、意図して訪れることは叶わないからだ。作家は現実の中に桃源郷が潜んでいること、現実と夢とが地続きであることをこそ訴えるのである。
三者三様であるが、現実と幻想とが入れ籠となっている世界(の境界)を自在に往還する様を描いているという点では共通していよう。それがTrifolium(三つ葉)として調和している所以であった。