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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『もうひとりのル・コルビュジエ 絵画をめぐって』

展覧会『大成建設コレクション もうひとりのル・コルビュジエ――絵画をめぐって』を鑑賞しての備忘録
大倉集古館にて、2024年6月25日~8月12日。

大成建設の所蔵する建築家ル・コルビュジエ(Le Corbusier)(本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ)(1887-1965)の作品から主に絵画を取り上げる企画。2階では「ピュリスムから」と「女性たち」とを掲げ1920年代から1930年代の作品を中心に、1階では「象徴的なモティーフ」と「グラフィックな表現」をテーマに1950年代の作品を中心に、それぞれ展観。地下では建築模型や書籍の展示も併せて行われる。

建築家ル・コルビュジエは450点ものタブローを制作し、絵画が建築同様に評価されることを望んでいた。絵画は、1920年代前半までのピュリスムの時代、1920年代後半から1930年代前半にかけてのポスト・ピュリスムシュルレアリスムの色濃い時代、1930年代から1940年代にかけての女性たちを描いた時代、戦後の象徴的なモティーフの時代と変遷し、50年代以降には版画、彫刻、エマイユ、大判のタペストリーも手掛けた(林美佐ル・コルビュジエの絵画と建築」森美術館他編『ル・コルビュジエ 建築とアート、その創造の軌跡』リミックスポイント/2007/p.28参照)。

ピュリスムは、フランス人画家アメデ・オザンファン(Amédée Ozenfant)(1886-1966)とコルビュジエとが1918年末に絵画展を開いた際、その小冊子『キュビスム以後』で表明された芸術理念である。第一次世界大戦キュビスムとが象徴する混乱を脱し、19世紀以来の科学・工業・機械の社会にふさわしい、静的かつ恒常的な秩序に基づいた芸術が目指された。2人はワインボトル、グラス、水差、小皿など機能性と経済性とを備えた幾何学的形態を持つ日用品をモティーフに、予め設定した規則に従って絵画を制作した。もっともキュビスムが復活すると、ピュリスムの特徴であった対象のヴォリュームと完結性とは放棄され、キュビスム的な平面的シルエットによる表現が採られるに至る。1925年夏に2人が現わした『近代絵画』では、自然の模倣から解放された純粋な構築的形態を通じて詩的感情を喚起するとしてキュビスムを評価するとともに、ピュリスムキュビスムの流れを受け、人間の感覚と精神の普遍的性質に基づいて形態と色彩の構成法を見出すとされた。幾何学を人間の言語とし、機械の美学を追求する企ては、1925年のアール・デコ博(パリ装飾芸術国際博覧会)のパヴィリオン「レスプリ・ヌーヴォー館」に結実する。近代工業の美学に統一された建築は、「住宅は住むための機械」というル・コルビュジエの言葉を体現した。ところが間もなくオザンファンとル・コルビュジエは決裂し、ピュリスムは終焉を迎える。前年に発表されたアンドレ・ブルトン(André Breton)(1896-1966)の『シュルレアリスム宣言』(1924)に象徴されるように、秩序回帰の時代は過去のものとなっていたのだ。ル・コルビュジエの絵画も有機物への変容を示し、1928年には女性像が現われる。もっとも、ル・コルビュジエの絵画における機械から自然への展観は秩序から混沌への転回を意味するものではない。自然の内部に秩序、すなわち幾何学的構造を看取するのだ。ル・コルビュジエは「建築の現在」(1927)において、キュビスムとは「生成途上の強大なもの」であり、自然そのものの形態ではなく、人間の胸中に引き写された造形的手段によって心を動かす近代の詩であると述べている(村上博哉「キュビスム以後」国立西洋美術館他編『パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展 美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ』日本経済新聞社/2023/p.190-194参照)。

2階展示室では、冒頭で静物を描いたピュリスム絵画[048-053]などを紹介した後、女性をモティーフとした絵画を展観する。肉感的な女性はがっしりとした下半身を持つ(《青い靴の裸婦》[069]、《裸婦》[072]など)。複数の女性たちを描いた作品では彼女たちが融合するような表現をとりつつ、色彩で区別をつける。取り分け取っ組み合う姿を描いた作品(《レスリング》[076]、《レスリングをする二人の女》[078])が印象的である。力と力とが働き合い、拮抗する。一見静謐な建築も実際は構成する材料同士の力の鬩ぎ合いの場であり、レスリングそのものなのだ。「住むための機械」とは、機械的生命感の表明であり、絶え間ない運動なのだと腑に落ちた。

 ル・コルビュジエの作品は面によって表現されるが、面を形成する輪郭線にも彼らしい特徴がある。ピュリスム期の作品では、隣りあう瓶やコップは色面の違いで認識され、ほとんど輪郭線は存在しないが、色面の境界が繊細な線として、まるで一筆書きのようにつながっていき、いくつもの静物は大きな1つの物体のように緊密な関係をもって融合していく。
 この輪郭の表現と細く均質な線は、20年代の後半から変質しはじめ、コップなどは膨らんだように丸みを帯び、それを描く線もだんだん太くなってくる。30年代になると、一筆書きのように描く筆運びは継続されているものの、豊満な女性の柔らかな肉体と同じように、描線は線自体が肥痩のある強い曲線へと変わっている。
 女性たくましい海女や運動選手、ダンサー、水浴する女性たちであり、彼の妻イヴォンヌがそうであったように豊満でたっぷりと太った体躯をもった、生命、母性の象徴であるかのように描かれている。「私は、女性、あるは女性のイマージュ、あるいは女性の小腸、あるいは女性の地質しかデッサンしなかったし描かなかった」とカラルほど、彼はじょせいの体の柔らかな曲線を愛していた。
 幾何学的形態によって構成された1920年代の建築においても、そこかしこに柔らかい曲線を認めることができるが、戦後の大胆な造型の建築では、コンクリートの特徴を生かしたフリーハンドの曲線から作りだされる曲面や、女性の二の腕に発想の源をもつ、手で捏ねたような形のコンクリートの築山、女性の太ももを思わせるたくましい《マルセイユのユニテ・ダビタシオン》のピロティの脚など、彼の建築には女性の体を思わせる、たっぷりとした形が潜んでいる。(林美佐ル・コルビュジエの絵画と建築」森美術館他編『ル・コルビュジエ 建築とアート、その創造の軌跡』リミックスポイント/2007/p.30-31)。

《女性のアコーディオン弾きとオリンピック走者》[095]にはアコーディオンの蛇腹を拡げて演奏する女性が表わされている。その蛇腹の上方、画面の隅っこには飛ぶように走る男の姿が小さく描かれている。音楽=秩序を象徴するアコーディオン奏者とまさに運動そのものの走者とは恰も釈迦と孫悟空のようだ。全ては釈迦の掌なのだ。否、力の拮抗の結果生まれる均衡は、むしろアダム・スミス(Adam Smith)(1723-1790)の(神の)「見えざる手(invisible hand)」であろう。いずれにせよ「開いた手」のイメージは、ル・コルビュジエにとって重要なモティーフであった[011-018]。