可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

本 金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』

金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』〔新潮文庫か-54-5〕新潮社(2024)を読了しての備忘録

ストロングゼロ」、「デバッガー」、「コンスキエンティア」、「アンソーシャル ディスタンス」、「テクノブレイク」の5つの物語から成る短篇集。

ストロングゼロ」は、出版社の新書担当編集者ミナの物語。面喰いのミナは、「誰がどう見ても格好いいと言う正統派の美形」のミュージシャン行成を自分の部屋に住まわせ、天にも昇るような気持ちで毎日を過ごしていた。だが交際から2年が経過した1年前、行成がアルバイト先で嫌がらせを受けて引き籠もりがちとなる。解雇されると一時的に回復して派遣で働くなどしたが、1ヵ月後に鬱を発症し、ほとんどベッドを離れられない状態となった。ミナは仕事のストレスと行成の介護とで「ストロング系」(アルコール度数8%以上の缶チューハイ)など強い酒が手放せなくなっていく。「ストロングゼロ」はサントリーの「ストロング系」のブランド名であるとともに、アルコール依存症を発症させる危険が指摘される「ストロング系」の代名詞である。本作では強い無力感を表わす言葉として採用されている。

 (略)何1つ、私の意志で何かを動かすことは不可能な気がするのだ。この無力感は、行成が一向に回復する兆しを見せないままどんどん鬱を悪化させていった経緯の中で、強固なピラミッドのようなものへと進化し、私の心の真ん中に鎮座している。(金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』新潮社〔新潮文庫〕/2024/p.33-34)

強固な無力感は、行成により自分の存在が認識されていない(=ゼロ)ために生じる。

 (略)彼の生きている世界に、私はもう存在していない。彼はもう、私の名前を忘れてしまったかのように、私の名前を呼ばない。向き合う時間が減ったな、1年前はその程度に思っていた。今はもう、彼の目が私の姿を捉えているその瞬間にも、彼の中に私が存在していないことがありありと分かる。(金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』新潮社〔新潮文庫〕/2024/p.21-22)

同僚の吉崎の交際相手だった他社の文芸編集者の裕翔と半年前に関係を持ったのは、裕翔が「桝本美奈」というフルネームで声を掛けてくれたからだった。だが美貌でない裕翔に恋愛感情を持つことはできない。

 人は変わっていくものだ。人に絶対なんてない。全ての人が明日ドブに落ちて死ぬかもしれないし、明日交通事故に遭って顔面や四肢が崩壊するかもしれないし、明日原因不明の難病を発症するかもしれない。人は偶然性によってのみ存在し続け、偶然性によってのみ死ぬ。必然的に人が存在することも存在しなくなることもあり得ないのだ。(金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』新潮社〔新潮文庫〕/2024/p.16-17)

ミナが絶対的な価値を置く端麗な容姿は永遠ではない。むしろ儚いものだ。世界は不確実である諦念はミナを否定的な思考に陥らせ、全ては消去法で進んでいく。消去法を象徴するのがアルコールである。だが消去法で全てが潰えることはない。消去したという負の数が蓄積するのだ。だから恋人を退去させ、部屋を片付けても、ゼロにはならず、飲み終えた缶(マイナス)が積み上がるのである。

「デバッガー」は、35歳のクリエイティブディレクター森川愛菜が主人公。24歳の後輩社員大山に好意を寄せられ、関係を持つ。10歳下の彼の肌に接して、自らの老いを意識させられた愛菜は、美容整形に手を出すことに。可能な限り情報を集め、これはという美容整形外科に向かい、額と目元へのボリフトを注射する。施術が失敗したらとの悩みは杞憂に終わり、大山との動物園デートも幸せに過ごせた。ところがデートの写真を送られると輪郭が気になって仕方が無い。愛菜はすぐさま次の施術を検討する。顔の1箇所をいじると、次の気に入らない箇所が見つかり、そこを直すとまた……と愛菜は美容整形の衝動に突き動かされていく。それは、かつて付き合った男の虚言癖にも似ている。

 そうして乗り換えた彼とは、2年ほど付き合った後向こうの虚言癖に疲れて別れた。小さい小さい嘘を重ねて少しずつ自分のイメージを操作する彼といる間、彼の作り上げた虚構の世界に付き合わされ、ずっとティズニーランドに生きてるような気分だった。最初の1ヶ月は楽しくて仕方がなかったけれど、半年立つと疲弊が蓄積し、1年も経つとハリボテの裏を知り尽くし、その虚構性に嫌悪しか抱かなくなった。こじれにこじれた別れ話を終え久しぶりの独り身になった時、私は32になっていた。(金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』新潮社〔新潮文庫〕/2024/p.64-65)

もっとも、大山は愛菜に対する愛情を喪ってはいない。愛菜が大山といると辛くなり、耐えられなくなったに過ぎない。

 私は大山くんと付き合っていたのではなく、老いと怯えあらゆる恐怖に耐え戦いながらも彼と一緒にいたいと望む自分と付き合っていたのではないだろうか。そんな突飛な考えが浮かぶ。なぜ、私は私と大山くんの間に、老いに怯える自分を介在させてしまったのだろうとも思う。私が私としてまっすぐ大山くんと向き合ってさえいれば、彼は満足していたかかもしれない。うまくいっていたかもしれない。でもそれは無理だった。どうしても無理だったのだ。彼と向き合うたび、老いに怯える自分と直面した。彼と向かい合うために美容整形に走り、走れば走るほど私は直面し続けた。自身のない自分、恐れをなす自分と。その自分に阻まれて、私は一度も大山くんとまっすぐ見つめ合うことができなかった。(金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』新潮社〔新潮文庫〕/2024/p.125-126)

衰えることは避けがたい美貌に拘泥し、その維持に執着するあまり破綻するという点で、「ストロングゼロ」のミナと「デバッガー」の愛菜とは共通する。

「コンスキエンティア」は、美容部員茜音と、1年半前から性交渉を持たなくなった30歳の夫、欲求を埋め合わせるために2ヶ月くらい前から交際している1つ年上の奏、親友・由梨江の弟龍太との関係を描く。
奏とは高校生のようなメッセージのやり取りが長々と続く。関係を持ってからは週に1、2度は呼び出され、帰宅は深夜3時になる。茜音は精神的・肉体的・経済的に負担を感じていた。それでも奏からもう会えないと別れ話を突き付けられると、離婚して一緒になりたいと奏との関係を繋ぎ止めようとする。そんなとき茜音は突然夫から体を強引に求められた。
1~2ヶ月連絡が途絶えた後、奏から突然会いたいと連絡が来た。二人は元の鞘に収まる。再びもう会えないと連絡が絶え、1~2ヶ月して会いたいと言われて茜音が応じる。それが3度も繰り返された。その間に茜音に想いを寄せる龍太と親密な関係になる。

 私は自分の力では制御できない獰猛な欲望を抱えていて、その欲望をどうにか夫と暮らすことで手なずけてきた。しかし夫が手綱を緩めた瞬間その欲望は暴れ出し、その手綱を奏に委託した。奏は私のせいか他の原因か分からないがとにかく自ら手綱を手放し、その手綱は今龍太の手の中にある。手綱を握らせるには心許ないが、私は彼といれば現実世界で心身ともに満たされている。
 しかしこの獰猛なものの正体はなんだ。客観的に見れば過大な承認欲求ということになるのかもしれない。しかしだとしたら、現在のこの満たされなさは何だ。夫との間にセックスがあって会話も少しずつ戻ってきて関係は改善しつつあり、奏には助けを求められ、龍太は心身ともに私を満たす。それなのに依然としてそこに漫然と横たわる、心身とは別のものが満たされていないこの孤立感はなんだ。人の中には、心と体とそれ以外にブラックホールのようなものがあるのだろうか。私はブラックホールに手当たり次第腹が膨れそうなものを投げ込み満たそうとしているのだろうか。(金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』新潮社〔新潮文庫〕/2024/p.185-186)

そんな思いを抱く茜音に夫は「茜音には我もないし、思いもない、良心もなければ意識もない、理想も理性もない、美意識すらない」(金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』新潮社〔新潮文庫〕/2024/p.188)と言い放つ。

「意識というものは17世紀以前は存在していなかった。現代に於いて意識と訳されるコンスキエンティアというラテン語は、デカルト以前は良心と訳されていた。デカルト以降、人間の行動は己の意識が支配しているという考え方が普及した。でもその考え方が普及したのは、当時の人間が神や宗教といった価値観から脱却し、自分で思考するにあたって必要な概念だったからだ。でも意識で自分をコントロールしていても、人は結局幸福にはならない。幸福は脳刺激によって惹き起こされる恍惚状態でしかない。人の恍惚がセロトニンという神経伝達物質に左右されていることは現代人なら誰でも知ってる。死の間際に後悔しないことは自分が犯した悪事だけである、という言葉があるように、人は強固な意志や倫理に従って生きて満足していくような存在ではない。俺にとって明瞭な意識を持たずに存在し続ける茜音と向き合うということは、人間とは何者であるのかという問いに向き合うことなんだ。そしてその答えは恐らく陳腐なものでしかない。つまり茜音と直面するということは、人間の陳腐さと愚かさという本質に直面するということに等しい」(金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』新潮社〔新潮文庫〕/2024/p.188-189)

「テクノブレイク」は、翻訳会社で電子機器の技術翻訳をしている芽依を描く。陽キャな遼とは大学卒業とともに疎遠となり別れた。陰キャな芽依は、映画や本の趣味だけでなく激辛料理好きまで一致する、総合商社に勤める蓮二と運命的に出遭う。相性の良さはセックスでも発揮され、芽依は蓮二なしには生きられないとまで思う。ところが感染症の世界的感染拡大の中、喘息持ちだった芽依はウィルスを恐れるあまり、蓮二を遠ざけてしまう。だが芽依は蓮二の体が忘れられず、2人の行為を撮影した映像で自慰に耽る。激辛料理同様、自慰に対する執着はエスカレートしていく。
「コンスキエンティア」の茜音の夫が指摘する通り、「人は強固な意志や倫理に従って生きて満足していくような存在ではない」。不確実な世界に放り出された人間は、狼狽え、不安に怯えて当然なのだ。パンデミックが浮き彫りにしたのは、「人間の陳腐さと愚かさという本質」だったのだ。

表題作「アンソーシャル ディスタンス」では、感染症拡大により折角チケットを手に入れたバンドのライヴが中止となり、憧れの会社の就職活動も叶わなくなった失意の沙南が交際相手の幸希と湘南に死出の旅に赴く。

「何があっても死ぬことなんか考えないようながさつで図太いコロナみたいな奴になって、ワクチンで絶滅させられない。人々に恨まれて人類の知恵と努力によって淘汰されたい」(金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』新潮社〔新潮文庫〕/2024/p.279)

沙南の叫びは、「ソーシャル ディスタンス」に象徴される厚生権力への抵抗である。健康という否定しがたい価値によって人間の行動が完全に管理・制御された「ユートピア」を目指すのは、自慰行為による死(=テクノブレイク)同様、「人間の陳腐さと愚かさという本質」を失わせることであり、結果的に人間を死に追いやることにならないか。
「アンソーシャル ディスタンス」とは、「人間の陳腐さと愚かさという本質」を守れという「アンソーシャル」な「スタンス」の表明であった。