展覧会『文豪×演劇―エンパクコレクションにみる近代文学と演劇の世界』を鑑賞しての備忘録
早稲田大学演劇博物館〔特別展示室・企画展示室Ⅱ〕にて、2024年6月7日~8月4日。
坪内逍遙を中心に、小説家と演劇との関わりを紹介する企画。第1章「坪内逍遙からはじまる近代文学と演劇の世界」、第2章「作家が愛した芸能・演劇」、第3章「演劇化された文学作品」、第4章「作家が手掛けた舞台」の4章(1階特別展示室)と坪内逍遙の事績(文学者との交流など)を紹介する附章「坪内逍遙と文豪達」(企画展示室Ⅱ)とで構成される。
【第1章:坪内逍遙からはじまる近代文学と演劇の世界】(*は資料の展示があるもの)
日本初の体系的文学理論書*『小説神髄』(1885-86)を著し、その理論に基づいた『当世書生気質』(1885-86)を世に問うた坪内逍遙は、シェイクスピアと近松門左衛門の研究者でもあった(*逍遙の自筆講義録)。逍遥(『早稲田文学』)は森鷗外(『しからみ草子』)と没理想論争を展開したが、上山草人(近代劇協会)の依頼で「マクベス」を翻訳をした鷗外から逍遙に*稿本を示して助言を求められると、朱註を入れた(最近、文京区立森鴎外記念館「教壇に立った鴎外先生」展(2024)でも紹介されたエピソードだが、本展では自筆・朱註の原本が展示されている)。逍遙は自ら戯曲も手掛けている(*「名残の星月夜」舞台模型)島村抱月と西欧流の新しい演劇を導入する「文芸協会」も設立している(1906)。演劇博物館は『シェイクスピア全集』全40巻(*中央公論社刊行の『新修シェークスピヤ全集』予約募集のポスター)の完成を記念して設立された。
【第2章:作家が愛した芸能・演劇】
明治期は歌舞伎や人形浄瑠璃、能・狂言など古典芸能は身近なものであったが、次第に西洋演劇の影響を受けた現代劇、大正期になるとオペラ、レビューなども登場する。浅草オペラを愛好した川端康成が*『浅草紅団』でカジノフォーリーを取り上げると(*かっぽれを踊る花島喜世子と梅園龍子)、見物客が殺到したという。作品と芸能・演劇の関係だけでなく、*武者小路実篤の古川ロッパ宛の葉書(1951)や*谷崎潤一郎が京マチ子に贈った書簡(1961)など、文学者が芸能人との直接のやり取りの資料も展示される。
【第3章:演劇化された文学作品】
明治期以降、新聞・雑誌などのメディアが発達すると、小説の演劇化を始めメディアミックスが展開する。尾崎紅葉の『金色夜叉』は舞台化を契機に、映画、歌謡曲、のぞきからくり、講談などに受容され、舞台となった熱海に銅像が建てられ観光資源ともなった(*映画主題歌楽譜、*竹久夢二の絵葉書。本展では言及がないが『金色夜叉』は近年の山本文緒『自転しながら公転する』でも主人公の名前を始め重要なモティーフとなっている) 。新派を代表する花柳章太郎は話題の文学作品の演劇化に精力的に取り組んだ(*泉鏡花「日本橋」、*火野葦平「馬賊芸者」などの衣装)。*劇団民芸の「夜明け前」、*俳優座の「波/門/心」、劇団三期会文芸小劇場「桜の森の満開の下」など文学作品の演劇ポスター、「細雪」や「楢山節考」、「坊っちゃん」などの台本が展示される。舞台装置(*伊藤熹朔舞台装置図「細雪」)の紹介もある。
【第4章:作家が手掛けた舞台】
明治期から文学者が趣味的に演じる文士劇が存在したが、大正期には新劇運動の影響もあって作家が戯曲を執筆し、舞台制作に積極的に関わる例も増える。本展では言及がないが、武者小路実篤が取り組んだ理想郷建設プロジェクト「新しき村」では演劇も実践された。岡本かの子は仏教研究者の経歴があり、仏教に取材した戯曲を執筆している(*「阿難と呪術師の娘」の舞台写真や尾上多賀之丞の隈取り、*日本俳優学校劇団試演会プログラム所載「蓮佛尼の戯曲化に就て」)。戦後になると、三島由紀夫(*文学座「トスカ」台本、*近代能楽集ポスター)や安部公房(*「棒になった男」ポスター、*「水中都市」上演台本)らが深く演劇に携わった。
【附章:坪内逍遙と文豪達】
逍遙は小泉八雲から『怪談』を贈呈され日本の演劇に関して質問されたことをきっかけに交流する(*小泉八雲宛逍遙書簡)。小川未明は早稲田で逍遙(「未明」の命名も)や抱月の指導を受け、八雲の講義を聴講した。未明は卒論を八雲論で書いたという。二葉亭四迷は逍遙の影響で文学を志し、『浮雲』は逍遙名義で刊行された(逍遙が序文で真の著者を明かす)。