展覧会『外波山颯斗・高橋拓也「PANTONE 448 C」』を鑑賞しての備忘録
OGU MAGにて、2024年7月11日~21日。
外波山颯斗と高橋拓也との絵画展。
高橋拓也《鳥(緑)》の画面はやや明るい緑で塗り潰してある。斑がある。金色(?)の微細な粒が不均一に蒔かれている。左上には柏のような葉を持つ木の枝をドローイングした茶色っぽい紙に、枝に留まる鳥の姿をシルエットで切り出したものが貼り付けられている。金の粒を纏った緑の鳥の姿が現われる。画面の右側中央の縁、右下の角、下側中央には、それぞれピンク、水色、紫の直角三角形(右下に直角)が配してある。
まず注目すべきは、緑の鳥をタイトルに掲げながら、緑の鳥が描かれていないことである。鳥のシルエットを切り抜いた紙を貼ることで鳥の姿が見えているだけなのだ(類例に《鳥(水色 茶)》など)。描かれるモティーフ(図)と背景(地)との区別の問題を扱い、モティーフを描き出さずとも絵画は成り立つと。すなわち絵画とは何かが追究されているのである。本展のメインヴィジュアルに採用されているように、暗い茶色「PANTONE 448 C」一色で画面を塗り潰しても絵画である。仮に「PANTONE 448 C」が世界で最も醜い色という見解を受け容れるなら、岡本太郎が掲げた芸術3要件「うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」に見事に合致しそうである。
また、シルエットの鳥(緑の鳥)の背を斜辺として左下に直角が来る、緑の直角三角形に抽象化するなら、3つの直角三角形に鳥の姿を見ることは不可能ではあるまい。《五羽の鳥》では写実的な5羽の鳥の胸像を並べた中に、朱色の線で大雑把な輪郭を表わした鳥の姿を混ぜ込んでおり、イメージの抽象化が試みられている。
さらに抽象化はアナロジーを容易にする。《四つの月(餃子)》では"D"字のイメージを4つ横に並べて皿に載せられた餃子を上弦の月に見立てるのである。
ところで、《四つの月(餃子)》では皿という平面に月という立体を捉える。絵画は対象を平面に閉じ込めてしまう。《鳥》では鳥を描いた画布の裏から深緑の絵の具を表面に押し出すことで、絵画の平面性とともにイメージが平面に囚われていることが強調される。《水色の四角形》や《茶色い四角形》を始めとする画面に格子を表わしたシリーズは籠を連想させ、格子の中に現われる三角形や円など幾何学の形は鳥その他のイメージを呼び起こさせる。
鳥を描いた中に(鳥ではなく)《烏》が紛れ込ませてある。白く塗りたくった画面の左側に灰色を背景に枝に留まる烏の姿を表わした、枯木寒鴉図である。色味も水墨画を意識しての選択であろう。枯木寒鴉図が描くのは「枯朶にからすのとまりけり秋の暮」(芭蕉)のイメージである。ならば暗い茶色「PANTONE 448 C」で塗り込めた画面に枯木寒鴉図を想起できはしないか。かつて会田誠が「美少女」の文字を前に想像力を駆使する姿を示したように、作家が絵画を提示して鑑賞者に投げ掛けるのは、閉じ込められたイメージを解放せよとの問いではなかろうか。
外波山颯斗の《95》は右側3分の2の方形、左側の紡錘形など、大まかに5つの形に分けて筆跡も明らかな明暗の紫を配する作品である。《bam》は暗いオリーブグリーンを基調色に、朱や藍の円や線が描き込まれる。《y-O》には暗い青緑の画面の左下に半円状のエリアがあり、黄・水色・茶の不定形の断片が散らされている。《休》は藍色を中心に、水色、くすんだ青などで画面を構成している。いずれも抽象性の高い作品である。外界のモティーフを写し取るのではなく、色の選択と配置により絵画内に別世界を立ち上げている。個々のモティーフの意味を捉えるのではなく、その世界に浸るよう要求する。その意味で音楽的な作品と言えまいか。