可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『吉田克朗展 ものに、風景に、世界に触れる』

展覧会『吉田克朗展 ものに、風景に、世界に触れる』を鑑賞しての備忘録
埼玉県立近代美術館にて、2024年7月13日~9月23日。

異質な物体同士の組み合わせにより、物体に働く力や状態あるいは特性の表出を提示した「もの派」の中核作家と目される吉田克朗(1943-1999)の回顧展。「ものと僕とは相呼応する」と述懐した作家の「もの派」的活動は初期に限られる。版画から展開した独自のフロッタージュ技法により「“物”の姿をかりながら“物”の姿を消す」としてイメージ(絵画)の可能性の探究に長く勤しんだ姿が紹介される。時代順に、第1章「ものと風景と(1969-1973)」、第2章「絵画への模索 うつすことから(1974-1981)」、第3章「海へ/かげろう イメージの形成をめぐって(1982-1986)」、第4章「触 世界に触れる(1986-1998)」、第5章「春に エピローグ」の5章で構成。

【第1章 ものと風景と(1969-1973)】
美術の諸ジャンルが解体され、美術の制度自体が問い直される中、横浜の富士見町アトリエをともに利用する同志で先輩でもある関根伸夫が円筒形に掘り出した穴の傍に掘り出された土を円筒状に成型した《位相−大地》(1968)を発表。その制作に携わった。作家も物体をそのまま用いてその特性が自然と表出されることを目論み、異質な物体を組み合わせ、物体に働く重力その他の力あるいは状態を提示する。天井から床に置いた石に張ったロープで木材を斜めに吊し上げた《Cut-off(Hang)》(1969/2024)[R2]では異なる物体の質感を対照させつつ、相互に働く力とその均衡を見せる。点灯する電球を取り付けた黒く長いコードを角材に巻き付けて床に置いた《Cut-off 8》(1969)[1-5]でも異なる材質を対照させつつ、光を当てるとともに黒いコードで光を遮蔽しようとする。ピクニックシートにように床に敷いた紙の4隅に石を置いた《Cut-off(Paper Weight)》(1969/2024)[R1]ではスケールを大きくすることで「文鎮」としての石をむしろ紙が支えている、作用・反作用を明らかにするようだ。首都高の下を潜る通りを行き交う人と車を捉えた写真のうち街路樹の支柱だけを網掛けにしたシルクスクリーン《Cut off Plan(The Splint)》(1969)[1-3]では、支柱が街路樹を、街路樹が高速道路(高架)を支えているように平面上で一体化する様を見せる。《Work"12"》(1970)[1-13] は街行く人を背後から捉えたモノクロームシルクスクリーン。半袖シャツの男性の後ろ姿が、その人物の右側にずらして網点で表わされている。《Cut-off(Hang)》[R2]で宙空に持ち上げられた木材、さらには関根伸夫《位相−大地》にも通じる、ズレによる関係の変化を提示する。それは変化前のあるがままの状態への意識を向けさせることにもなる。イギリス留学後に制作された《ロンドン Ⅱ(Eaton Gate)》(1975)[1-40]ではロンドンの通りを撮影した写真とそこから自転車乗りと自動車だけを切り出したイメージとを併置する。自転車乗りと自動車との間にも重力は働いている。それは《Cut-off(Hang)》[R2]などで提示していることに等しい。

【第2章 絵画への模索 うつすことから(1974-1981)】
版画技術を習熟するとともにヨーロッパの作家と交流するなどしたイギリス留学から帰国した後は、「もの派」的な立体作品を作らなくなる。指定方向外通行禁止や車両通行止めなどの交通標識をモティーフにしたモノクロームの標識の色を表わす色指定紙を貼付した「J」シリーズ(1974)、コンパスや三脚、ライトスタンドなどに彩色したものを紙や布に写し取る(「直撮り」と名付けたフロッタージュ技法)「Work D」シリーズ(1977)などを手掛けた。後の「Work 3」・「Work 4」シリーズ(1979-1980)では「直撮り」の対象を壁面という物体から周辺環境へ拡大し、「Work 6」シリーズ(1980-1981)では海外雑誌の誌面を「直撮り」して情報ないし印刷物(複製)の複製へと展開させる。対象の拡大とともに「直撮り」の技法も単に対象を写し取るのではなく、線状の描線を幾何学的に構成し、オリジナルにはないイメージを立ち上げた。

【第3章 海へ/かげろう イメージの形成をめぐって(1982-1986)】
「海へ」シリーズ(1982-1983)では抽象化されていはいるものの鉛筆や黒鉛を用いて風景を描き出し、対象の直接的な転写から主観的な絵画表現へとさらに近付いている。《かげろう"3043"》(1983)[3-13]はアルミ粉を用いた金属的光沢のあるグレーを基調に、臙脂、クリーム色、紺などの不定形のモティーフが配される抽象絵画である。色遣いや三枚続きの画面には浮世絵版画を連想させるものがある。《かげろう"婉-12"》(1986)[3-21]は雑誌の人物の一部を拡大したイメージというが、確かに赤と黒を背景にクリーム色のどっしりとした重量感のある軟体物には人体らしき生命感があるが、人物とは思いも寄らない。恣意的表現を嫌い主観性から遠ざかろうとした作家が行き着いた絵画表現には、打ち消そうとして孵って頭を擡げる主観性が現れ出ている。

【第4章 触 世界に触れる(1986-1998)】
「触」シリーズは手指に黒鉛を付けて手の形を紙に表わすことで始まった有機的なイメージの作品群。後にはキャンヴァスを支持体に油絵具やアクリル絵具を併用した色味のある作品に展開した。床に置いたキャンヴァスの上に板を渡し、その上から指で黒鉛の擦り付けて制作されたという。作家は物体や環境を直撮りしようとしてきたが、遂には作家自身が直撮りされていたのである。

 (略)ひとは何ものかを、たとえば道具として、手段として思いのままに使っている過程で、その使っているものに似てくる。より正確にいえば、知らず知らずにそれがそなえる構造に逆規定されることになるということである。所有している者が所有されるものに所有され返す、そういう関係の反転が《所有》にはつきものだということである。たとえばヘーゲルの次のような指摘がその1つである――
所有において私の意志が1つの外面的な物件のなかへおのれを置き入れるということのうちには、私の意志はその物件のうちに反映されるとちょうど同じほど、その物件において捉えられ、必然性のもとに置かれるということが含まれている。鷲田清一『所有論』講談社/2024/p.38-39)

万物斉同。作用には必ず反作用がある。関根伸夫《位相−大地》の制作に携わったとき直観したことを終始一貫して様々に表現した作家だったのではなかろうか。