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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『戦後の女性画家たち 有馬さとえ・朝倉摂・毛利眞美・小林喜巳子・招瑞娟』

展覧会『戦後の女性画家たち 有馬さとえ・朝倉摂・毛利眞美・小林喜巳子・招瑞娟』を鑑賞しての備忘録
実践女子大学香雪記念資料館〔企画展示室1・2〕にて、2024年7月1日~8月3日。

長く等閑に付されてきた女性芸術家を評価する気運が高まる中、有馬さとえ(1893-1978)、朝倉摂(1922-2014)、毛利眞美(1926-2022)、小林喜巳子(1929-2023)、招瑞娟(1924-2020)の5名の画家を取り上げる、実践女子大学香雪記念資料館の所蔵作品展。実践女子大学の学祖下田歌子は100年も前に、女性の文化活動を顕彰する活動を展開していたという。本展は先覚者・下田歌子の衣鉢を継ぐ企画の1つである。作家紹介と作品リスト(一部作品について図版あり)を掲載した解説リーフレットが配布されている。下田歌子記念室では伊藤小坡・跡見玉枝・島成園・木谷千種・上村松園の作品を紹介する企画を併催。

有馬さとえ《五月の窓》(1946)[01]は大きな窓のある部屋を描いた油彩画。左手前の椅子の蔭に女性の胸像が置かれ、その背後に立て掛けられた女性の肖像画との対である。胸像が立体作品で、彩色が無く、顔が見えるのに対し、肖像画は平面作品で、彩色があり、顔が見えない。そして肖像画の脇には古い巨木を描いた絵がある。画面左端に位置するこの絵は、画面右端の円卓に置かれた花瓶の植物あるいはキュウリ・タマネギ・リンゴと対であろう。描かれた古いものに対し、生きていて新しいものである。そして、絵画2点の額と木製の窓枠とが類比の関係に立ち、窓からの景観は恰も絵画のように立ち現われる。ここで注目すべきは、花瓶の植物の葉が鳥の翼のように拡がっていることである。女性は彫刻や絵画として室内に閉じ込められているが、その室内から窓を抜けて飛び立つことが暗示されているのである。窓が絵画のアナロジーであることから、絵画制作(表現活動)を通じて自由を手に入れよと訴えるのであろう。《五月の窓》の隣には、ギターを膝に載せて坐る女性をモティーフとした油彩画《題名不詳(チャイナドレスの女性)》(1950頃)[02]も展示。作家は岡田三郎助の内弟子。第7回帝展(1926)で女性洋画家として初の特選を受賞。

朝倉摂《部屋》(1957)[04]は赤褐色の支配する画面に左から両腕を腹の前に抱えて椅子に坐る女性、曲芸のように逆立ちする少年、背を伸ばし尾を立てた猫を描いた作品。画面中央下段に紡ぎ車のような輪が見え、少年の頭がちょうどその輪の手前に位置することで、逆立ちした少年の曲げた脚から頭部の方向へ時計回りの力が輪に伝わり、さらに輪の2つの接線が女性の腹部で交わるように引かれていることで、力が女性へ流れる。すなわち視線が母胎ないし子宮へと導くように構成されているのだ。部屋が赤を基調にするのも母胎内への連想を誘うためではなかろうか。もっとも暗褐色の画面はどちらかと言えば陰鬱で女性の懐胎という役割を寿ぐものには見えない。あるいは女性に子を持つ役割に押し込める発想が旧態依然のものであることを暗示するのかもしれない。男性の後ろ姿のシルエットを背景に赤子を抱える女性を描いた《日雇の母》(1953)[03]も紹介されている。作家は伊東深水に師事。後年は舞台美術家として活躍。

毛利眞美《自画像》(1954)[06]は黄色と灰色を基調とした作家の肖像。背景を黄や山吹色の短冊状に分割し、作家の姿も胸側に垂らされた髪を始め縦方向に長く引き伸ばされた幾何学形に抽象化されているが、矩形で構成される背景とは異なり弧が多用される肖像の身体性ないし柔らかさが強調される。敢て喩えればアメデオ・モディリアーニ(Amedeo Modigliani)とフェルナン・レジェ(Fernand Léger)との折衷様式と言ったところか。明度の高い鼻筋により顔に視線を誘うとともに、そこから真っ黒な四分円の左目やから垂れた髪に覗く菱形の闇へと視線が引っ張られていく。類例作品《題名不詳(人物)》(1953)[05]も併せて展覧に供されている。因みに、2023年には南天子画廊で評伝の出版記念展が催され、今年になってアーティゾン美術館でも新収蔵作品として2点が夫・堂本尚郎の作品と並べてお披露目されるなど、作家は現在脚光を浴びている。

小林喜巳子は1946年に共学化した東京美術学校の最初の女子学生の1人で安井曾太郎に学ぶ。在学中の作品《晴日睡蓮》(1946)[07]は不忍池の景観を描いたのであろう。《町工場》(1957)[10]は箱が所狭しと積み上げられた工場で手作業に勤しむ4人の女性の姿と、その背後で機械に向かう1人の男性とが描かれる油彩画。人物の黒く太い輪郭線を、輪郭線の内側の区画を塗り潰す色よりも一段濃い色でなぞることで、力強い表現が生まれている。フェルナン・レジェの影響という。《題名不詳(貝を剝く人)》[09]では、貝を並べた台の縁の水平線、3つの桶の円状の口縁、作業する女性の腕が、貝剥きナイフを使う手に集中線のような効果を与え、女性が作業に没頭する様子が表現されている。ケーテ・コルヴィッツ(Käthe Kollwitz)の影響もあり木版画も手掛けた。その典型的な作品がベッドに横たわる人物を見守る人々の姿を描いた《一日本人の生命》(1954)[12]である。会場には、油彩画の《題名不詳(自画像)》[08]と《Kの家族》(1950年代後半頃)[11]、木版画の《大くら市の日》(1972)[13]・《ぼんおどり》(1972)[14]・《アトリエにて》(1987)[15]も並ぶ。

招瑞娟は、魯迅提唱の「木刻運動」に共鳴した李平凡が結成した「神戸新集体版画協会」に参加するが戦争激化等のために版画制作は不可能に。東京美術学校の女性の一期生となり2年ほど学んだ後、神戸で小学校教員の傍ら版画を制作した。《吶喊》(1959)[20]は、背を反らし片手を振り上げて叫ぶ人物を中心に、その人物に縋る子供と、背後にいる8人の人物とが表わされた作品。ケーテ・コルヴィッツの影響が明白な力強い作品。有刺鉄線で囲われた中に樹木と半ば一体化するような鳩を抱く少女を描いた《鳩と少女》(1964)[21]では、左上に浮かぶ目玉が強烈な印象を与える。《シャボン玉の中の私》(1976)[24]は黒い画面に流線とともに表わされた大きな円(球)に笑顔が配され、オディロン・ルドン(Odilon Redon)を彷彿とさせる。他に《石炭かつぎ》(1956)[16]、《麻袋を繕う老婦》(1957)[17]、《題名不詳(老婦)》(1959)[18]、《老婦》(1959)[19]、《海辺の少女》(1974)[22]、《小憩Ⅱ》(1975)[23]、《殻屑Ⅰ》(1981)[25]が紹介される。