可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『nuance 東京藝術大学日本画第二研究室4人展』

展覧会『第29回大学日本画展 nuance 東京藝術大学日本画第二研究室4人展』
UNPEL GALLERYにて、2024年7月20日~8月4日。

東京藝術大学大学院美術研究科日本画第二研究室所属の阿部エリカ、木村子子、高橋健人、田口静来の4人の作家を紹介する企画。

阿部エリカ《flow》(1620mm×1620mm)は、灰褐色の画面に木の幹や枝などの拡がりを線のみで写実的に表わした紙を貼り重ねた作品。幹や枝の中には道管が水を伝えるのであるから、樹木とは水の流れそのものである。また光を求めて枝を伸ばしていく様は水が山谷を削るのに等しく、さらには生まれた樹形は成長すなわち時間の流れの形象化でもある。樹影を重ねることで絵画に実際に時間を重層させる。絵画をある意味でアニメーションとし、anima(魂)を吹き込もうとする。和紙に線で表わした植物の枝葉と人の手足とを画面上で重ね合せる《overlap》(910mm×1167mm)においては、成長や生命を、すなわちanima(魂)をより尖鋭的に表現して見せる。《pebbles》(1000mm×803mm)では大小の様々な石が散らばる。岩石が削られ丸みを帯びた石へと変じるのは主に水の力による。樹や人の内部の水の流れに対し、外部の水の流れを石で描く。石による水の表現は枯山水的とも言えよう。

木村子子《goodbye》(1620mm×2460mm)の画面のほとんどを占めるのは、白で表わされた無数の根の塊である。手前には砂浜、奥側には海が拡がるためマングローブの一種と考えられる。海は深緑、空は藍色で、水平線近くだけが僅かに朱に染まる。夜明けないし暮れの薄暗い中、白い根は発光しているかのようだ。密集する根の脇には小舟に亡骸が横たえられ、何輪かの白い花が添えられている。舟葬であろう。遺体を乗せた舟が海に流されるのである。画面の手前を奥に立つ太い幹は鳥居であり、砂浜が幽明の境の場で有ることを示す。白い根は遺体から養分を吸い取っているようにも見える。彼岸へ渡る者の存在が此岸の人々の生命の根底にあることを訴えている。《火》(1620mm×1303mm)は林間で燃えさかる炎を描いた作品。4本の木に挟まれた炎は儀式として燃やされるようでもある。速水御舟《炎舞》(1925)の炎のように図案化されておらずかなり描き方は異なるが、冷徹な眼差しのためか、炎であるにも関わらず冷え冷えとした感覚をも受ける点が共通する。蝶ではなく木であるが、やはり生死が主題なのであろう。《モモ》(910mm×725mm)には花を付ける下草の中に立つ樹木を描く。暗い林間に立つ樹木は人の立ち姿を連想させる。ミヒャエル・エンデ(Michael Ende)の『モモ(Momo)』を介して灰色の男たちと時間の花とを見るのは牽強附会が過ぎようか。

高橋健人《concrete drawing》(1136mm×1818mm)には白い画面に赤い線で壁や柱や扉、あるいは排気口やダクトのようなものが描かれる。都市景観を主題とした風景画であり、主に直線で表わされる幾何学図形の構造物により無機質な硬質な世界が画面に立ち現われている。中央上部に表わされた円は日月山水の日輪を豊富とさせよう。コンクリートで覆われた凍れる世界にも時間は流れ、生命は息衝くのである。《passerby》(727mm×910mm)は通行人を描く墨絵のような作品である。前に頭を下げる人物の胸像を左側に、通り過ぎる2人の人物を右側に、支柱に"EXIT"の標識を中央に配する。《concrete drawing》の世界を行き交う人々はほとんど幽鬼のようである。《Daily Exhibition》(1167mm×1167mm)は、点字ブロックと電光掲示板の黄色い光の作る線の中に、エスカレータの乗降口と、幽霊のようなぼやっとした人影が表わされている。都市における幽冥の境は海岸ではなくエスカーレーターの乗降口ということはありそうだ。此岸へと上り、彼岸へと下る。否、点字ブロックや電光掲示板のドットはデジタルの象徴であり、人々の姿がデータに変換されている状況を揶揄するのである。

田口静来《ブーゲンビレアの庭》(1120mm×2273mm)は画面上段にブーゲンビレアの朱の花が燃えさかる炎のように描かれる。庭にはブーゲンビレア以外にも様々な木々が繁茂し、奥に立つ家屋を呑み込んでいる。「魂の花」ブーゲンビレアを始め生命の激しさが表現されている。《眠りの谷》(1167mm×910mm)も庭の景観であろう、踏み石を覆い隠してしまう低木の茂みが主に青緑で表わされる。《ブーゲンビレアの庭》のブーゲンビレアが燃えさかる炎なら、《眠りの谷》は津波のようである。《ブーゲンビレアの庭》のタイトルに対し、《眠りの谷》との題名は比喩的である。茂みの奥に覗く朱が夕景が人生の黄昏のメタファーなのであろうか。それならば、下る道の先(画面手前)は死者の眠る場所ということになる。《ブーゲンビレアの庭》を挟んで《眠りの谷》の反対側に展示されるのは《碧玉の朝》(1167mm×910mm)である。クリーム色の流体と青緑・紫の流体とが画面の大部分を占める、かなり抽象的な作品である。その混沌は生命を育むようであり、あるいは受精の瞬間を象徴的に描くようである。いずれにせよ3作品で朝(《碧玉の朝》・昼(《ブーゲンビレアの庭》)、夕(《眠りの谷》)が表現されているのであった。それは人生の3つの段階を暗示であり、全体で人を表わすのである。