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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 宮内由梨個展『Scraped Script からからの水壺から消える星の楕円』

展覧会『宮内由梨「Scraped Script からからの水壺から消える星の楕円」』を鑑賞しての備忘録
gallery N 神田社宅にて、2024年7月27日~8月10日。

皮膚を主題とする絵画と立体作品とで構成される、宮内由梨の個展。

 「科学的」にいえば、人間の皮膚は、表皮と真皮と皮下組織に大別される複合組織である。2ミリ程度の厚さの皮膚は、内部と外部の境界にあって、肉を包み、外に対して内を守る甲冑である。それは、この私という存在を他者から分かち、それに個別性と肉体的プライヴァシーを保証する物質的基盤である。しかしそれはまた同時に独特の感覚器官でもある。視覚や聴覚や味覚が身体の一定の部位に局所化されているのに対し、皮膚感覚の領域が身体全体に拡がり(平均的な成人で皮膚の表面は2平方メートル近くになるという)、しかも未規定であることは、特徴的な事態であるといわなければなるまい。「高級感覚」と「低級感覚」といったギリシア以来の区別にもかかわらず、視覚と聴覚、そして味覚と嗅覚が、局所化されているがゆえに教化され洗練され開拓され統制され利用されるのに対して、触覚としてことさらに指先に局所化されるのでなければ、基本的に皮膚感覚はそうしたことを全て免れている。未規定であるとは、そういうことである。そしてまた皮膚は、高密度に分布した受容器によって、熱さや冷たさ、硬さや柔らかさ、荒さや滑らかさ、あるいは痛さなどを感じる器官であるばかりでなく、それ自体があらゆる感覚の対象となりうる唯一の感覚器官でもある。それは、呼吸し、発汗し、分泌し、排泄するから、においを発するがゆえに嗅がれ、味をもつがゆえに舐められ、脈動するがゆえに聞かれもするが、また触覚の対象として触れられ、撫でられ、こすられ、あるいは裂かれもする。それがまたなによりも眼差しの対象であることはいうまでもない。こうしてすべての感覚に原則的に開かれている皮膚は、内部と外部との、オルガニズムと環境との複雑な交換の場、受容の表面であると同時に、表現の道具、マクルーハン的にいえば、まさにメッセージとマッサージとが混淆するメディアになる。それは内に閉ざすだけではない、外に対し開きもするのだ。
 透過性と不透過性とを両義的に体現し、しかも衰亡と再生とを繰り返す、このかけがえのない皮膚という存在が、「自我」の形成において決定的な役割を果すことを、ディディエ・アンジューはその『皮膚-自我』(1985)なる書物において熱っぽく語っている。
「皮膚-自我」は原初的な羊皮紙で、そこには皮膚の上の痕跡からなる前言語的な「原初の」文字の下書きが、パランプセストのように消されたり、こそげ落とされたり、重ね書きされたりしながら保存されている。(福田素子訳にもとづく)
(谷川渥『鏡と皮膚』筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2001/p.265-267)

《Scar Script 2years》(240mm×335mm)の黄や橙の朦朧とした画面の中央には、1本の横線と複数の縦線が刻まれ、暗紫色が滲んでいる。ガサガサとした画布は皮膚であり、その刻線は疵痕である。「『皮膚-自我』は原初的な羊皮紙であり」、刺青という始原的絵画を連想させもしよう。日本の場合、縄文時代土偶や埴輪に黥面が見られ、魏志倭人伝には黥面文身の記述がある(但し、江戸時代初期まで数百年の空白期間がある。宮下規久朗『刺青とヌードの美術史 江戸から近代へ』日本放送出版協会NHKブックス〕/2008/p.170参照)。あるいは触覚を刺激する凹凸ある画面は、黄や橙に炎の光に見せ、松明に照らし出される洞窟壁画に通じるかもしれない。思えば絵画は始めから(from scratch)身体や岩壁を引っ掻かいていたのだ。

《Fresh Interaction 1》(1310mm×890mm)はオレンジ、赤、青など様々な色が混ざり合い、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)の後期作品のような茫漠とした世界が拡がっている。表面には引っ掻いた跡などがあり、これもまた皮膚としての絵画であろう。

 特に注目すべきは皮膚の表層にある表皮だ。この表皮はケラチノサイトという細胞で構築されている。表皮の深い場所で生まれたケラチノサイトは、次第に形を変えながら皮膚の表面に向かい、やがて死ぬ。平たくなって死んだケラチノサイトが、角層を作る。前世紀までは表皮の役割は角層を作ることだけだと考えられていた。
 しかし今世紀の初め、ぼくたちは、42℃以上の熱、唐辛子の辛味成分カプサイシン、酸によって作動されて痛みを感じるスイッチ(受容体)であるTRPV1がケラチノサイトに依存し機能していることを証明した。それがきっかけとなって、ぼくたちや海外の研究者たちが、様々な環境からの刺激を感知する機能を表皮、ケラチノサイトが持っていることを明らかにしてきた。
 たとえば、電磁波である光、色、電気、磁気、あるいは音(超音波も含む)、湿度、大気圧、空気中の酸素濃度、疲れたり触られたり刺激などの物理学的な現象すべてを感知する能力を表皮、ケラチノサイトは持つ。さらに嗅覚、味覚に関係する様々な分子を識別するよう能力も持つことが明らかになった。
 表皮は視覚、聴覚、嗅覚、触覚の五感すべてと、眼や耳で完治できない紫外線、超音波、気圧の変化、磁場などまで感知できる驚くべき感覚器官なのだ。
 さらにぼくたちはケラチノサイトに、大脳の情報処理の基礎となる情報伝達物質、それらによって作動される受容体も存在し、機能していることも発見した。これは、よく考えてみれば不思議ではない。受精卵が人間の形になる最初の段階で、外胚葉、中胚葉、内胚葉と呼ばれる3つの部分に分かれる。外胚葉は表皮になる。それがくぼんで溝を作り脊椎になり、その末端がふくれて脳になる。 脳や耳、鼻や舌のような感覚器も外胚葉からできる。
 そう考えると、まず表皮に様々な感覚器、情報処理システムがあり、それから脳や神経系、感覚器が作られるとも言える。それは数億年前の進化の過程でもあっただろう。クラゲのような原始的な動物は身体の表面に感覚器を持ち、脳はなく、体表に広がる網状の神経系を持っていた。それが魚の祖先になるとき、神経系は束になり、眼や耳や鼻の起源になる感覚器になった。表皮に感覚器や脳にあるような受容体がある、というより、表皮にあった感覚器や情報処理装置が、眼や耳や鼻や脳になったというべきだろう。(傳田光洋『サバイバルする皮膚 思考する皮膚の7億年史』河出書房新社河出新書〕/2021/p.58-60)

「表皮は視覚、聴覚、嗅覚、触覚の五感すべてと、眼や耳で完治できない紫外線、超音波、気圧の変化、磁場などまで感知できる驚くべき感覚器官」であり、表皮で感知される膨大な情報をイメージに変換するなら《Fresh Interaction 1》描く混沌とした世界が立ち現われる。

《湿る乾景》(300mm×160mm×32mm)は、底に塩を敷いた透明のアクリルケースに紙を漉き返した紙を収め、上部に5本の水を蓄えたスポイトを設置した作品である。塩と水が象徴する乾湿の間にある紙が手漉きの「再生」紙であることに注目したい。紙は再生する皮膚のメタファーである。皮膚の最外層の角層は常に更新され、なおかつ角層は(表皮内のカルシウムイオンなどの偏在による電位差を利用して)水分の蒸散をコントロールする組織だからだ(皮膚や角層のバリア機能について、傳田光洋『サバイバルする皮膚 思考する皮膚の7億年史』河出書房新社河出新書〕/2021/p.82-110参照)。アクリルケースに封入された再生紙≒皮膚に穴が開いていることと、塩と水とが海水(塩水)となることを併せ見れば、和邇に毛皮を剥がされた素兎、海水ではなく水で体を洗うことで傷ついた膚を再生する説話「因幡の白兎」を想起させもしよう。

 あるいは、近年、アトピー性皮膚炎の罹患率が増えている原因として、居住環境の変化があるのではないかと考えられている。特に日本では、かつては木造、隙間だらけの家屋だったのが、密閉性の高さが好まれるようになり、さらにはエアコンなど空調設備も発展し広く使われることになった。その結果、夏には戸外では高湿度、家の中は低湿度、一方で冬になるととそは低湿度、室内は加湿器によって高湿度となる。家を出たり入ったりするたび、皮膚は自然の季節変化ではありえないほどの劇的な湿度変化にさらされ、それに適応できず、バリア機能の破たんがおきる場合もあるのではないか。長い歳月をかけて進化してきた人間の皮膚、角層バリアの維持機能は、たとえば季節に伴う湿度変化のように、緩やかにな変化に対しては、角層を厚くしたりして対処できる。しかし、この数十年という短い期間に人間が自ら望んで起こした住環境の変化には対処できないのだ。
 環境との境界である表皮、角層は、環境の異常な変化の影響をまっさきにあらわにするのだろう。(傳田光洋『サバイバルする皮膚 思考する皮膚の7億年史』河出書房新社河出新書〕/2021/p.141-142)

《Dig in the Barrier》(550mm×400mm×150mm)は綿紗を張った楕円形の白い枠の中に設置された機械仕掛けの手が定期的に綿紗を引っ掻く作品である。注目すべきは手が外側からではなく内側から動作していることである。皮膚を搔く動作が自我すなわち自らの境界を掘り崩すことに重ねられているのである。耐え難い痒みとは自己に対する否定的評価のメタファーであるが、搔き壊すことによって自らの殻を打ち破ることにもなり得るのである。

《領域の星座 1》(600mm×540mm×80mm)は楕円の画面が四角形、五角形、六角形などにより分割され、黄、オレンジ、茶などに塗られている。多角形は表皮のうちでも有棘層下層側の表皮細胞を連想させる。この作品もまた皮膚の表現なのだ。《Dig in the Barrier》の白い枠同様、楕円の形状をしているのは、楕円が人(人体)のメタファーであるためであろう。人が宇宙(マクロコスモス)に照応するミクロコスモスであるなら、人に星座を見ることも不可能ではあるまい。

 古代ギリシャでは、人体とはもうひとつの宇宙であると考えられていた。マクロコスモスとしての宇宙と、ミクロコスモスとしての人体である。人の魂にはもうひとつの宇宙(ミクロコスモス)があって、それが外界に果てしなく広がる宇宙と対応している。つまり、人体と宇宙はつながっている。(浦久俊彦『138億年の音楽史講談社講談社現代新書〕/2016/p.43)

《水壺 2》(920mm×725mm)には褐色の画面一杯に壺が描かれている。壺のシルエットは円に近い楕円で、暗い画面の中で白味のあるオレンジで浮き上がっている。ところどころ瘡蓋のような褐色の部分があり、楕円の壺もまた皮膚であり、人体である。そして闇の中に浮かぶ壺は宇宙空間の惑星のようでもある。

気密性の高い人工環境へと引き籠もり、自然環境との繋がりを喪失してしまった人々は想像力をも涸渇させている。人体(ミクロコスモス)と宇宙(マクロコスモス)との繋がりを捉えていた瑞々しい思考も失ってしまっている。作家はそれを憂い、ミクロコスモスとマクロコスモスとの照応を取り戻そうとしているのである。それが「からからの水壺から消える星の楕円」と副題が添えられている所以であろう。