展覧会『nam euihyeon「The Garden」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2024年8月5日~10日。
身体と植物とのアナロジーに着目したブロンズ像と絵画とで構成される、nam euihyeonの個展。
《Just a flower》(310mm×310mm×460)は、ヒヤシンス状の植物とその下に仰向けになった胸像とから成るブロンズ作品。「ヒヤシンス」は茎がほぼ真っ直ぐに伸び、葉は僅かに枝のような小さなものが2枚付くばかり。小花は人間の手の形で、それらが組み合わさった形が一見ヒヤシンスに見せている。胸像は髪のない眠る人物で肩が省略され腹に向けて窄まる楔のような形状。楔の先には人物を花としたときの萼のように手が付く。花がヒヤシンスであるなら、倒れているのはヒュアキントスであろう。ヒュアキントスが額に円盤を受けて亡くなる際に流された血から咲いたのがヒヤシンスとされるからである。
《in the garden Ⅰ》(605mm×400mm)は、赤い椿の花が咲き誇る手前の台に切断された2本の腕が肘の部分を付けて向かい合う様を表わした油彩画。背景を埋め尽くす椿の花のうち5つが蕊を見せる。椿は腕に比して大きい(あるいは腕は椿に比して小さい)。腕相撲をするように台に肘を付けて向かい合う腕は、右側の手が触れようとして左側の手が避けようとするようにも見える。手は群れ咲く花同士の擬人化であろうか。
《the weight of a little flower》(310mm×310mm×160)は、左側を下に倒れて丸くなる人物が左手を伸ばす姿を表わすブロンズ作品。身体に比して頭部と臀部とがやや大きめに作られている。他作品、例えば無題のブロンズの胸像作品の1つでは後頭部が割れ顔には首元からの萼が貼り付いているため、本作品においても頭部は花である可能性が高い。大きな臀部は縄文時代の土偶やヨーロッパの先史時代のヴィーナスのような、地母神的なイメージを彷彿とさせる。何より印象的なのは腹の位置から真上に伸ばされているひょろ長い左腕である。左腕は茎、左手は花であろう。花=頭を支えきれずに倒れてしまったことを表現するのだろうか。
《雪山Ⅰ》(350mm×245mm)は遠景に青空を背にした冠雪した連峰、中景に雲(ないし霞)の上に姿を表す緑の尾根、前景に鳥の巣を右手に持ち左肩に黄色い鳥を留まらせた青いマネキン人形が描かれる水彩画。マネキン人形の頸部は斜めに切断され、頭部がない。左肩の鳥は人のような顔を持ち、長い尾羽が存在しない左腕の代わりのように描かれているのは、鳥が頭部の働きの代行者であることを示すためだろう。鳥の巣には黄色い卵(ないし雛の頭)が覗く。その表面には肩の鳥と同じ様な顔がある。ヒヤシンスの《Just a flower》、あるいはスズラン、タンポポ、ピンクのユリを頭に戴いた黒髪の少女を描いた《春娘》(450mm×340mm)などが展示されていることを考え合わせると、霞が立ち、黄色い鳥が春を告げる場面であるのかもしれない。切断された頭部は再生されるのではなかろうか。
《雪山Ⅱ》(350mm×245mm)は冠雪の峻嶮な連峰と森林を背に広がる雪原とを背景に赤い髪の女性を描く。テーブルを前にした女性の赤い髪が画面の半分近くを覆う。彼女は長い首を持ち、大きな左手で自らの顔に手をやる。彼女の顔と左腕とが左側に2つずつ、少しずつ傾いた角度で並ぶ。異時同図的手法により時間の経過を表わすのだろう。彼女は次第に高度を上げていく太陽の化身なのかもしれない。テーブルの上に左端には蛸の触手を連想させるぐにゃぐにゃした赤い髪の先が覗く。『創世記』に登場するイヴに近付いた蛇を連想させる(展覧会タイトルが「The Garden」であることもエデンの園(Garden of Eden)を想起させる)が、それは性の目覚め(≒思春期)として描かれるものかもしれない。作家は春を重要なテーマとしているようだからである。
「Manure」シリーズはトルソと腕とから成るブロンズ作品である。床に溶けていくようなトルソと、床から伸ばされる腕とは、人間=人体が象徴する生命が大地に帰り、再び地上に現われる輪廻を表わす。
「毒草」シリーズは手の葉と頭部の花による小さなブロンズ作品。蔓延る草のように床に置かれている。「Manure」シリーズが床に沈むように設置されていることもあり、オディロン・ルドン(Odilon Redon)の《沼の花(La fleur du marécage)》を連想しないではいられない。「毒草」とは文字通り毒のあるタイトルであるが、毒になるようなものでなければ薬にもならない。
作家の作品に特徴的なのは、身体と植物との類似性と、身体の切断である。とりわけ頭部の切断は死を連想させる。だが切断は連続を、死は生を、反対概念の不在を印象付け、反転する。一種のメメント・モリ(memento mori)ではある。だが虚しさを訴えるヴァニタス(vanitas)ではあるまい。雪景が春の訪れの場面として表わされるように、死と生との再生のサイクルこそ訴えられるテーマである。