展覧会『エリザベス・グラスナー「Head Games」』を鑑賞しての備忘録
ペロタン東京にて、2024年7月2日~8月31日。
エリザベス・グラスナー(Elizabeth GLAESSNER)の絵画展。
《Sphinx with arms》(1372mm×2413mm)(2024)は前景に水辺で腹這いになる裸の女性を、中景左側の水中に背泳ぎのような姿勢で揺蕩う女性を、後景の右端の岸壁の傍には膝まで水に浸かって立つ人物(女性?)の後ろ姿が配される。画面下端から4分の1を占める岸を除けば、画面上端から5分の1の岸壁も含めて明暗の緑が画面を支配している。画面中段に広がる暗い水中を漂う女性はもとより、前景のスフィンクス(Sphinx)である腹這いの女性もまた水の中にいるようにぼやけ、ぼんやりと発光している。スフィンクスは、ギリシャ神話ではギリシャのテーバイで旅人に謎掛けをしたという、女性の頭とライオンの胴に鳥の翼を持つ怪物である。もっとも本作の「スフィンクス」は両腕を前に出して上半身を支える姿勢こそスフィンクスらしいが、怪物の姿ではない。見立てによるスフィンクスである。
ところで、ドミニク・アングル(Dominique Ingres)の《スフィンクスの謎を解くオイディプス(Œdipe explique l'énigme du sphinx)》(1827)やギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)の《オイディプスとスフィンクス(Œdipe et le Sphinx)》(1864)など19世紀の名画では岩場(山中)を舞台に描かれるスフィンクスが、本作では海辺(ないし水辺)に描かれるのは何故であろうか。
《Sphinx with arms》と同テーマの作品に《Sirens》(229mm×457mm)(2023)がある。裸体女性の向き(頭が右側か左側か)、中景の水中に漂う人の位置(左側か右側か)、後景の膝まで水に浸かる人物の位置(右側か左側か)は前者と後者とで異なるものの、描かれるモティーフは同一である。だが題名が明らかにする通り、スフィンクスではなくセイレーン(Siren)の見立てであることが分かる。すなわち作家はスフィンクスをセイレーンとを等価と看做しているのである。それゆえスフィンクスが岸辺に表わしたものと思料される。
それでは、スフィンクス≒セイレーンを半獣の怪物ではなく人間として表わすのは何故であろうか。
紀元3世紀から5世紀頃より、キリスト教会の指導者は古代の異教の象徴である人魚の形を変えつついっせいに取り入れ、敬虔な信仰や自制といった教えを伝えるために利用した。昔からレイプや暴力と結びつけられてきたのはマーマン〔引用者註:男性の人魚。トリトン〕のほうだったが、初期のキリスト教会にはフェミニティ(女性性)を貶めるという任務があったので、男性の化け物は無用だた。マーマンに意識を向けるよりも、聖職者はホメロスの描いたハルピュイアを自分たちが利用しやすい観念に変えようとした。そのなかで、性的な雰囲気やイメージを強調し、独自のマーメイドの表象をつくりあげた。
この過程で重要なのは、人魚の肉体の表象の仕方だった。現代のわたしたちが思い描くマーメイド像は、初期のキリスト教の聖職者がつくりあげたこの謎の生き物そのままだ。伝統的なマーメイド像といえば、腰から上が人間の女性の姿をした半女半魚、長い髪をなびかせ、裸の胸をあらわしに、片手には鏡、もう一方の手には櫛をもっている。これは、キリスト教会の指導者にとって不思議と危険を示すのにうってつけのシンボルだった。(ヴォーン・スクリブナー〔川副智子・肱岡千泰〕『[図説]人魚の文化史 神話・科学・マーメイド伝説』原書房/2021/p.11-13)
キリスト教会が異教の象徴である人魚に男性を堕落させる女性としてのイメージを重ねて以来、人魚はセイレーンとも結び付きながらファムファタルとして描かれてきた。例えば、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse)の《マーメイド(A Mermaid)》(1901)やハーバーと・ジェームズ・ドレイパー(Herbert James Draper)の《ユリシーズとセイレンたち(Ulysses and the Sirens)》(1909頃)などである。人魚が人と魚のハイブリッドであるように、スフィンクスもまた人とライオンなどとのキメラである上、モローの《オイディプスとスフィンクス》のように、スフィンクスをファムファタルとして表現した作品がある。《Sphinx with arms》や《Sirens》の中景で流される女性は男性を誘惑する怪物として女性を捉えるミソジニーの伝統を表わし、その流れから抜け出した女性が怪物などではなく人間であることを裸身を晒し訴えるのではなかろうか。モティーフはほぼ同じでありながら《Sirens》(2023)から《Sphinx with arms》(2024)へと画面を大きくし、タイトルを付け替えたのは、スフィンクスの謎掛けの答えを援用するためではなかろうか。答えは人間だ。
《Monster》(406mm×305mm)(2023)は両手を前について腹這いになり、水面に映った自らの姿を見詰める怪物の姿を描く。画面の上側4割程度に茂みと思しき黄緑を背景に灰色の膚を持つ人が滲むように不明瞭に描かれる。頭部に小さな角らしきものが生えているようにも見え、それが人ではなく怪物(monster)と判断する根拠となろうか。画面の下側6割は水面らしく、それを見詰める「怪物」よりも大きく柔らかな印象で女性的に見える鏡像がオレンジ色で浮かぶ。カラヴァッジョ(Caravaggio)の《ナルキッソス(Narciso)》(1597-1599)が連想される構図である。
《Earth Sucking Sky》(356mm×457mm)(2024)には淡い青緑の水に潜った女性が左手・左足を水底に、右手・右脚を水面に浮かばせた格好で描かれ、彼女の腹の部分には上向きで四つん這いになる彼女よりも小さな人が表わされる。エジプト神話の天空の女神ヌトとともに大気の神シューを表わすように見えるが、画題からはヌトと大地の神ゲブらしい。
赤い画面に棍棒を持った人物が浮かび上がる《Sprite》(305mm×229mm)(2023)は、例えばフランシスコ・デ・スルバラン(Francisco de Zurbarán)《ヘラクレスとクレタの牡牛(Hércules y el toro de Creta)》(1634)のように棍棒とともに表わされることが多いヘラクレスであろう。トルソを抱き抱える女性を表わす《Mimesis》(406mm×305mm)(2023)は、ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Léon Gérôme)の《ピグマリオンとガラテア(Pygmalion et Galatée)》(1890)などの絵画で知られるピグマリオンであろう。ヘラクレスやピグマリオンが男性ではなく女性として表現されている。
表題作《Head Games》(356mm×457mm)(2023)には、頭部のない人物が四つん這いになり、その背後にその人物のものと思しき頭部が転がっている。背後の小さな円柱に支えられた絵画には、その頭が切断された這う人物を眺めるような人の顔が大写しにされている。無頭の人物と言えば、ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille)の雑誌『アセファル(Acéphale)』を連想させるが、画面の人物は男性ではあるがバタイユには似ていない。ジョージ・オーウェル(George Orwell)の小説『1984年(Nineteen Eighty-Four)』のビッグ・ブラザーのようであり、頭部を切断された人物は、洗脳された人々の姿を象徴するのかもしれない。
《Head Games》を始め《Grass Play》(305mm×406mm)(2024)、《Creature》(356mm×457mm)(2023)など、四つん這いの人物が多数表わされるのが印象的である。それは「朝は4本足」に象徴される人間(人間社会)の黎明期に思いを馳せさせるためではなかろうか。エジプト神話やギリシャ神話をモティーフにし、あるいは男性と女性を入れ替えて制作された作品群は、ミソジニーのキリスト教社会成立以前の思考へと鑑賞者を誘うのである。