展覧会『デ・キリコ展』を鑑賞しての備忘録
東京都美術館にて、2024年4月27日~8月29日。
ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico/1888-1978)の回顧展。英題に付された"Metaphysical Journey"に示されている通り、形而上絵画を軸にデ・キリコの画業の一貫性を浮かび上がらせることに狙いがある企画。冒頭の「SECTION1: 自画像・肖像」(ロビー階)は別として、「SECTION2: 形而上絵画」(ロビー階・1階)、「SECTION3: 1920年代の展開」(1階)、「SECTION4: 伝統的な絵画への回帰」(2階)、「SECTION5: 新形而上絵画」(2階)の4章は大まかに時代順の構成。その他に「挿絵〈神秘的な水浴〉」(ロビー階)、「彫刻」(1階)、「舞台美術」(2階)の特集コーナーが挿まれる。
《オデュッセウスの帰還》(1968)[S5/064]は部屋の床に絨毯のような海が拡がり、小舟に乗ったオデュッセウスが櫂を手にしている。右側の壁にはギリシャの神殿を臨む窓があり、白い椅子が置かれている。左側の窓には額装された塔(イタリアの広場)を描いた初期の形而上絵画が掲げられ、その脇に赤い椅子がある。オデュッセウスに自らを重ねた作家が達成したのは形而上絵画であり、古代ギリシャに端を発してそこに回帰することが示されている(ファビオ・ベンツィ〔田口かおり〕「ジョルジョ・デ・キリコ 20世紀のアルゴナウテス」東京都美術館・朝日新聞社編『デ・キリコ展』朝日新聞社/2024/p.183参照)。堂々巡りであるとともに、制作の一貫性を示すことにもなる。
堂々巡りとフリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche)の永劫回帰(Ewig Wiederkehren)とを短絡させるのは牽強附会に過ぎようが、デ・キリコはニーチェに傾倒していたらしい(ファビオ・ベンツィ〔田口かおり〕「ジョルジョ・デ・キリコ 20世紀のアルゴナウテス」東京都美術館・朝日新聞社編『デ・キリコ展』朝日新聞社/2024/p.157参照)。形而上絵画へと作風を転換させる過渡期の作品として《山上への行列》(1910)[S2/010]が掲げられている。岩山の上に覗く教会の鐘楼に向かって黒ずくめの女性たちが道を上っていく。べったりとした描写にはアンリ・ルソー(Henri Rousseau/1844-1910)の影響が窺われるという(ファビオ・ベンツィ〔田口かおり〕「ジョルジョ・デ・キリコ 20世紀のアルゴナウテス」東京都美術館・朝日新聞社編『デ・キリコ展』朝日新聞社/2024/p.162-163参照)。教会を目的地とした終わりへ向かうのではなく、日曜毎に教会へ繰り返し足を運ぶ信者の姿ということになろう。
《沈黙の像(アリアドネ)》(1913)[S2/011]は画面の左上から右下に向かう対角線の下側にアリアドネの像を大きく表わし、中景には連続するアーチが特徴的な建物、後景には頂部に旗を靡かせる赤い塔が見える。《山上への行列》[S2/010]の教会の鐘楼に代わり、赤い塔がランドマークとして聳える。やはり塔は終着点ではない。テセウスに迷宮からの脱出法として糸玉を授けたアリアドネが描かれていることから分明である。ところで、《沈黙の像(アリアドネ)》[S2/011]は形而上絵画の時期の傑作と紹介されている(ファビオ・ベンツィ〔杉山太郎〕「《沈黙の像(アリアドネ)》解説」東京都美術館・朝日新聞社編『デ・キリコ展』朝日新聞社/2024/p.38参照)。形而上絵画の嚆矢として《ある秋の午後の謎》(1910)や《信託の謎》(1910)があり、いずれも画題に「謎」を冠している。彫刻やマネキン、家具や建物といった具体的なモティーフが組み合わされるのは、"atmosfera"や"Stimmung"といった言葉で表わされる、感覚や経験を超えた対象を表現するためであるらしい(ファビオ・ベンツィ〔田口かおり〕「ジョルジョ・デ・キリコ 20世紀のアルゴナウテス」東京都美術館・朝日新聞社編『デ・キリコ展』朝日新聞社/2024/p.163-165参照)。容易に解釈を受け付けない対象により謎を設定しているのだ。幕が描かれるのは舞台の再演であり、永劫回帰の象徴である。後年の新形而上絵画における影はゴーストであり、過去でもあり未来でもある。すなわち繰り返しの具現化であろう。目的無き繰り返しの帰結としての無意味こそ謎の正体として設定されているのである。
《予言者》(1914-15)[S2/025]や《形而上的なミューズたち》(1918)[S2/028]、あるいは《ヘクトルとアンドロマケ》(1924)[S2/029]などに描かれるマヌカン(マネキン)は、ギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire/1880-1918)の自伝的小説『虐殺された詩人(Le Poète assassiné)』に触発されたのことだが、第一次世界大戦と軌を一にしている(ファビオ・ベンツィ〔田口かおり〕「マヌカン章解説」東京都美術館・朝日新聞社編『デ・キリコ展』朝日新聞社/2024/p.57参照)。同時期のダダイスム(Dadaïsme)や、後のジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille)の秘密結社「アセファル(Acéphale) 」にも通じる、理性に対する異議申し立てと映る。
《神秘的な考古学者たち(マヌカンあるいは昼と夜)》(1926)[S3/040]、《考古学者》(1926)[S3/041]、《考古学者たち》(1927頃)[S3/042]にはマヌカンの考古学者たちが描かれる。考古学者は繰り返される時間を象徴する存在だろうか。印象的なのは、考古学者たちの極端に下半身が小さく表わされている点である。大聖堂でゴシック彫刻の坐像は胴体が大きく脚が小さいために荘厳な雰囲気を醸し出すと考えたのだという(ファビオ・ベンツィ〔江川空〕「《神秘的な考古学者たち(マヌカンあるいは昼と夜)》解説」東京都美術館・朝日新聞社編『デ・キリコ展』朝日新聞社/2024/p.80参照)。その姿は《谷間の家具》(1927)[S3/043]などで人のように扱われる椅子のイメージに近しい。坐る者の無い椅子は理性の否定やニヒリズムにも通じる。
《鎧とスイカ》(1924)[S4/054]は17世紀スペインの静物画「ボデゴン(bodegón)」を連想させる。切られたスイカと廃墟(そして鎧兜)が等価として扱われている。植物、人間、建築、それぞれのサイクル=時間を想起させる。《横たわって水浴する女(アルクメネの休息》(1932)[S4/055]では波打際でシルクの布に横たわる裸の女性が描かれる。波、波打つシルク、脂肪で波打つ肌がアナロジーとなっている。寄せては返す波は時間のメタファーであり、この作品もまたサイクル=時間を想起させる。