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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代』(後期)

展覧会『走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代』(後期)
菊池寛実記念 智美術館にて、2024年7月5日~9月1日。

1948年、京焼の中心地である五条坂周辺で製陶業に従事していた八木一夫、叶哲夫、山田光、松井美介、鈴木治の5人で陶芸家集団「走泥社」が結成された(「走泥」は蚯蚓が泥の上を這ったような痕を指す「蚯蚓走泥文」に因む)。同人が入れ替わりながら50年にわたり活動し、実用の器ではなく、「オブジェ陶」とも呼ばれる芸術作品としての陶芸を確立した。本展は走泥社の活動の前半を振り返るもので、智美術館会場では2期に分けて開催される。後期では1964年に開催され、小山冨士夫のセレクションで紹介された海外の陶芸作品によって日本の陶芸界に変革を及ぼした「現代国際陶芸展」(国立近代美術館、石橋美術館、国立近代美術館京都分館、愛知県文化会館美術館で開催)とその影響を作品(1964~73年)に見る。

1964年の「現代国際陶芸展」では小山冨士夫のセレクションで海外の陶芸作品が出展され、日本の陶芸界に変革を迫ったという(本展では原弘の手掛けたポスターのメインヴィジュアルに採用されたルーチョ・フォンタナの陶板(1963)[他019]など7点が紹介される)。八木一夫の作品に対する評価と、「現代国際陶芸展」前後の八木作品との比較により、その影響の一端が明らかになる。

陶芸界は、陶芸に先駆けて前衛意識やオブジェを新たな表現に取り込んでいたいけばなの影響を受ける。例えば、1951年『草月』誌において、勅使河原宏がいけばなについて「室内に装飾的な雰囲気を醸し出す」段階から「独立した造形物体即ちオブジェとして逆に空間を支配する」、「現代の言葉によって現代の空間を振動させる」段階へと質的に転化したと指摘し、重森三玲は花卉草木を始めあらゆる素材に人間性を入れ、芸術的に活かすと述べている(大長智広「今、走泥社を『再考』するということ」京都国立近代美術館他編『走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代』青幻舎/2023/p.275参照)。
轆轤で成形した円環と複数の円筒形とが組み合わせ、2本の円筒形で円環を支えて立つ八木一夫《ザムザ氏の散歩》(1954)[走108]が、実用性を否定した「オブジェ陶」の記念碑的作品とされる。もっとも轆轤や施釉など伝統的な陶芸制作の要素に着目しての評価は1960年代末以降のものであるという。すなわち、1964年現代国際陶芸展の衝撃後ということになる。《ザムザ氏の散歩》[走108]の発表当初は「意識の過剰をうまくまとめ上げ」とか「孤独な彼の心を反映」とかいった心象風景の表出に評価が下されていたらしい(大長智広「今、走泥社を『再考』するということ」京都国立近代美術館他編『走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代』青幻舎/2023/p.272-273、278参照)。

 浜村の写真入りの展評〔引用者註:浜村順「火を通した土のオブジェ 八木一夫の作品」『美術手帖』91号、1955年2月〕によると、八木はフォルム画廊での個展に《ザムザ氏の散歩》のほかに《作品A》や《作品B》など、タタラ板を箱形に成型したりU字型に成型したりした形状に円筒が付く記号的名称の作品も出品していた。また、同じく同展に出品された《作品C》は、おそらく手びねり成形による。さらに八木は同展に半円状に曲がった直方体に無数の円筒状の口がつく《花器》も出品していた。こうした一連の作品が同一の展覧会に出品されていたことを考慮するならば、八木は円環や円筒は轆轤を用いて、四角い形はタタラ板で成形するなど、形状に合わせて製作技法の選択を行っていたことがわかる。つまり《ザムザ氏の散歩》が轆轤で成形されたのは、その形態を作るうえでの合理的、必然的な手法であったからだといえる。その意味で、八木が「轆轤を成形状の単なる機械と述べたのは正鵠を得ているとしても、それは轆轤だけでなく、ほかの成形手法に対しても当てはまる。(略)轆轤という技術を伝統の象徴としての特権的な位置に置くのではなく、制作当時の八木や山田、鈴木をはじめとする走泥社同人の意識や作風がそうであったように、手びねりやタタラ作り、型作りなど、やきものの制作の様々な技術を等価に置いた場合、重要なのはどの制作手法を使ったのかではなく、作品が表象する内容それ自体となる。八木の作品に対する当時の評価が製作技法についてではなく心象風景の表出に対してであったことがそのことを物語る。前衛いけばなを通じてすでにみたように、素材と造型を人間性を通じて、空間に独立させるものが、1950年代初期のオブジェ観であり、アンチアカデミズムとしてあらゆるものを否定する態度が前衛であった。(略)
 おそらく前衛陶芸家としての八木自身は、1950年代前半の時点では、《ザムザ氏の散歩》にみられるような円筒形と全体の構造を通じて、陶磁器の造型を人間精神の発露という現代の立体造形言語(オブジェ)として自立させていくことを目指していたものと思われる。(大長智広「今、走泥社を『再考』するということ」京都国立近代美術館他編『走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代』青幻舎/2023/p.278-280)

《ザムザ氏の散歩》にみられるような円筒形は同時代の陶芸家の作品に共通して見られる要素であるという。円筒形は器官として人間存在、さらには心象風景の表出へと連なっていくようだ。
八木一夫《小町のギプス》(1964)[走067]は、座面に孔が開き、背凭れに切れ込みが入った坐椅子のような焼き物のである。「現代国際陶芸展」にルーチョ・フォンタナ(Lucio Fontana)が陶板を出展していることからも、ルーチョ・フォンタナ(Lucio Fontana)がキャンヴァスに切れ込みを入れた《空間概念(Concetto spaziale)》の影響が想定される。坐椅子のような形態とタイトルの「小町」からは、三島由紀夫の翻案でも知られる謡曲卒塔婆小町」を連想させる。流浪の小町はヘルメス的(≒空間的)、水平的である。対して、卒塔婆に腰掛け、あるいは怨霊として留まる小町はヘスティア的(≒時間的)、垂直的である。まさに座面=水平と背凭れ=垂直の交差として座椅子はある。あるいは孔や切れ込みは遍在するゼウスの象徴であるかもしれない。
八木一夫《黒陶 環》(1967)[走071]は黒いドーナツが自立し、一部から臓物のようなぐにゃぐにゃとした中身が露出している。管が生命の基本形態であるとして円環を個人と捉えることも、あるいは蝟集する有機的器官を人の集合体として社会の象徴と捉えることもできよう。極度の不完全燃焼による炭素の吸着による黒い焼き物「黒陶」は、施釉により廃れた古い土器の技法の再生であり、始原的なものを参照して陶芸を捉え直そうとする姿勢が窺える。
八木一夫の《白い箱 OPEN OPEN》(1971)[走072]は、白い立方体の上面が蓋のように僅かに開きかけている。陶芸が器なら、空間に最大容積を確保できる立方体は可及的に公立を求める資本主義的な社会に相応しい。浮き上がった上面に向けて矢印とOPENという文字が側面に描き込まれている。円環がザムザなら箱は箱男であり、英語(ゲルマン語派)が表面に記されていることと相俟って文学的というのは短絡に過ぎようか。フランツ・カフカ(Franz Kafka)に影響を受けた安部公房を――たとえ『箱男』の刊行が1973年だとしても70年代の思潮として――連想せずにいられない。