可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

本 原田マハ『楽園のカンヴァス』

原田マハ『楽園のカンヴァス』〔新潮文庫は-63-1〕新潮社(2014)を読了しての備忘録

最終章を含め全11章で構成されるフィクション。

20世紀最後の年。倉敷の大原美術館の展示室。監視員の早川織絵が最近お気に入りのピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌの《幻想》の前で佇む。

 画家を知るには、その作品を見ること。何十時間も何百時間もかけて、その作品と向き合うこと。
 そういう意味では、コレクターほど絵に向き合い続ける人間はいないと思うよ。
 キュレーター、研究者、評論家。誰もコレクターの足もとにも及ばないだろう。
 ああ、でも――待てよ。コレクター以上に、もっと名画に向き合い続ける人もいるな。
 誰かって?――美術館のセキュリティスタッフ(監視員)だよ。(原田マハ『楽園のカンヴァス』新潮社〔新潮文庫〕/2014/p.10-11)

《幻想》は彫刻家クロード・ヴィニョンの邸宅を飾る4枚のうちの1点で、織絵は他の3点について調べたいという気持ちを自ら封印している。パンドラの箱を開けることはできないと。
近隣の白鷺女子高校の生徒たちがエル・グレコの《受胎告知》の作品を前に引率教員の説明を受けていた。明るい栗色の髪の欧州人のような顔立ちの美少女が遅れて展示室に入ってくる。ガムを噛んでいるのに気付き、織絵が注意する。だが、彼女はガムを呑み込んでしまう。
その少女は織絵の娘の真絵だった。大手商社のフランス支社長だった織絵の父が交通事故で急死したとき、パリ大学で美術史を学ぶ織絵はパリに留まった。16年前、妊娠した織絵は未婚のまま、母の暮らす岡山へ里帰りして出産した。娘は織絵と折り合いが悪かったが、織絵の母には心を許していた。
織絵は母親が真絵からパブロ・ピカソの《鳥籠》の絵葉書をお土産にもらっていた。
織絵は監視員として展示室で改めて《鳥籠》に向き合う。囚われの鳥は、実は窓台に降り立った鳥籠越しの鳥なのではないか。織絵は自らもう飛べないとの想念に囚われいたことに気が付く。
そのとき織絵は学芸課長・小宮山晋吾に呼ばれ、ともに館長室に向かう。宝尾義英とともに暁星新聞社の文化事業部長・高野智之が織絵を待っていた。暁星新聞はアンリ・ルソーの回顧展を企画し、目玉作品としてニューヨーク近代美術館(MoMA)に《夢》を考えていたところ、MoMAのチーフ・キュレーター、ティム・ブラウンから織絵を交渉相手にして欲しいとの要望があったのだという。
ティム・ブラウンの名を聞いて織絵は激しく動揺する。実は織絵はコース最短の26歳で博士号を取得した気鋭の近代美術研究者であり、17年前、ともにアンリ・ルソー作とされる作品に向き合っていた。

2000年の倉敷で早川織絵の視点で始まった物語は、第2章から、その17年前、アンリ・ルソーの研究者でMoMAのアシスタント・キュレーターであるティム・ブラウンを主人公とした物語に切り替わる。ティムはチーフ・キュレーターのトム・ブラウンの代わりに、伝説のコレクターであるコンラート・バイラー秘蔵のアンリ・ルソー作品を鑑定するためにバーゼルに飛ぶ。ティムは新進の研究者オリエ・ハヤカワとともに、《夢をみた》なる作品を目にする。それはMoMA所蔵の《夢》と酷似していた。バイラーは7章から成る物語を示し、1日1章ずつ読み、7日目に《夢をみた》の鑑定を2人に迫る。死期を悟ったバイラーは、勝者に《夢をみた》の取り扱い権を委ねるという。第4章からは、バイラーが読ませる物語によりアンリ・ルソーが生きていた1906年のパリが入れ籠に描かれ、バイラーの名画を狙う者たちの暗闘に巻き込まれたティムの物語と同時進行する。

作中作では、貧窮し、病を得て、稚拙な絵と揶揄されても、只管絵画を描きたいとの情熱に突き動かされる老いたアンリ・ルソーの姿が、主にルソーに見初められた若い人妻「ヤドヴィガ」の視点で描かれる。当初老画家を毛嫌いしていたが、次第に彼の情熱に打たれ、彼の作品の魅力に呑み込まれていく。読み手もまたヤドヴィガとともにルソーの魅力に気付かされるという結構が見事である。のみならず、作品ではなく、作者未詳の物語を読んで作品の真贋を判定させるという荒唐無稽な取り扱い権を巡る勝負も、バイラーの《夢をみた》の秘蔵も、理由あるものと納得させられてしまうのである。

貧しい画家が(画廊ではなく)古道具屋で安く手に入れた絵画に描くというエピソードから、《夢をみた》は名画の上に描かれた作品であることが明らかになる。名画を露わにすれば、《夢をみた》は失われ、《夢をみた》を守れば、名画は日の目を見ることが叶わない。名画はカルネアデスの板になってしまう。そして、ティム・ブラウンにとっても《夢をみた》の鑑定を巡る講評の勝者になることは、見初めた織絵を窮地に追いやることになり、敗者となれば自らがMoMAを逐われることになる。やはり《夢をみた》はカルネアデスの板なのだ。ティムは自らの身を挺し、真に芸術を愛好する者であること――延いては織絵を愛する者であること――を明らかにするだろう。

第1章では、大原美術館所蔵の絵画によって織絵の境遇が暗示される。エル・グレコ《受胎告知》は織絵が真絵を「父親なしに」出産したことを、パブロ・ピカソの《鳥籠》はもはや美術史研究者としては活躍できないとの諦念に囚われていた織絵が狭い鳥籠(≒家庭、美術館)から飛び立つことを、それぞれ暗示する。
それでは、最初に登場するピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌの《幻想》は何を暗示するのか。春を告げる水仙を摘む少年は思春期を迎えた真絵であろう。少年に背を向ける女性は織絵である。ペガサスはペルセウスのメトニミーであり、ペルセウスは囚われのアンドロメダを救い出す。アンドロメダは家庭、美術館(の展示室)に閉じ籠もっていた織絵であり、ペルセウスMoMAのチーフ・キュレーターとなったティム・ブラウンその人である。織絵はティム・ブラウンによって再び羽搏くことになるだろう。

織絵はティム・ブラウンの言葉を信奉して、美術館の監視員を務めていたのだった。

大原美術館の学芸課長・小宮山晋吾は、世田谷美術館出身。世田谷美術館アンリ・ルソーら「素朴派」の作品をコレクションの1つの核としている。
作中で言及はないが、児島虎次郎《和服を着たベルギーの少女》に真絵の姿を着想しているかもしれない。