展覧会『清水雄稀「相添ふ」』を鑑賞しての備忘録
K Art Galleryにて、2024年8月9日~25日。
清水雄稀の陶芸作品を展観。
ギャラリーの表通りに面した角、ガラス壁面の傍に鎮座する《鉄絵壺》は、張った肩から胴へ窄まる大壺で、灰白の地に鉄釉の焦茶色のギザギザの縦線が形に合せて肩で幅を広く腰に向かって幅を狭く流れていく。ギザギザは雷、あるいは紙垂を伸ばした幾何学形で、一見するとシャープであるが、実は不揃いで、色味とともに手業の温かみを感じさせる。このギザギザは口縁の内側に切り出された鋸歯(三角形の連なり)と連続している。
《鉄絵壺》のギザギザ、鋸歯と呼応するのが、やはり灰白に鉄絵でギザギザの横線を表わした壺《波壺》であり、あるいは座面に星型五角形を表わした椅子《星の腰掛け》である。とりわけ星型五角形は、花入れや陶板、小さな壺などにも顔を見せ、モダンな印象を生む。尖った形は、籠目や五芒星、アイヌの棘の文様などにも見られる破邪に通じるとも言えよう。
《五壺陶板》や《五壺》では、愛らしい小さな壺が横に並べられ、あるいは連ねられる。五芒星からの連想で、5つの壺は、五行すなわち木・火・土・金・水を象徴するものとも解される。壺中の天ならぬ、五壺の天である。
連続の表現としては、板の左右で留めた鎖がだらりと垂れる《陶鎖》がある。連続、あるいは繋ぎの形は、吉祥文様に見れるが、中でも生命の豊饒を表現する唐草文様を連想させよう。
ピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel)の描くバベルの塔のような形をした重箱《重箱塔》を始め、《陶香炉》や《陶製掛花入》などに塔の形が表わされる。中国や東南アジアに見られる塔の形状に近い。仏舎利を収めるストゥーパであり、日本の墓地に見られる卒塔婆(板塔婆)の原型である。卒塔婆がギザギザにより5つ部分に分かれるのは五大(地・・水・火・風・空)を表わす。
《マイマイの箱》では連続する輪ないし渦が水平方向ではなく垂直面に描かれている。《メマイ蓋物》では、器の肩を中心から周囲へと渦を描く。作家は酩酊により平衡感覚を失わせる。なぜか。酩酊により徹底的なデフォルマシオンを可能にし、延いては経験界に存在しているものの成立は依拠するところがない無「本質」であることを直覚させるためとは考えられないだろうか。
言語にたいする禅の態度は著しくダイナミックで行動的である。極限的な精神的緊張の真只中に言葉を投げこみ、その坩堝のなかで一挙にその意味志向性の方向を、いわば無理やりに水平から垂直にねじまげる。言語は自然に与えられたままの形では全然使いものにならないのである。どうしても徹底的なデフォルマシオンが必要となる。そしてそのためには、言語を現実の生きた禅的場面で禅的に使用するほかはない。どうしてこんなことをしなければならないのだろうか。
禅の言語にたいするこのような特殊な態度は、もし人が存在の結晶体から出発し、結晶体においてのみ存在を見ている限り、無限定者としての存在そのものは絶対に見ることができないという根本テーゼに立っている。ハイデッガーの言うように、存在は言語を家として宿る。すなわち語は存在を分節された形で提示する。正解はばらばらに切り離されて独立に存立する事物の集合体として現われる。暗闇の舞台に無数のスポットライトが照らされ、数限りないものが浮び出る。ハイデッガー的に言うと、「存在」は見失われ、「存在者」のみが顕現する。かくて世界は自己同一的事物(「山は山、水は水」)に充たされた存在領域となるのである。そしてこのような存在領域においては、それらのものを眺めつつ、それらをものとして認知する自分もまた他の一切から切りはなされた1つの事物にすぎない。我もここではものと化す。認識論的に見ると、ここに主体と客体の区別と対立が成立する。
こうして言語はもともと無限定的な存在を様々に限定してものを作り出し、ものを固定化する。ここで固定化とは言語的意味の実体化にほからなない。
だが、禅はものの固定化をなによりも忌み嫌う。一切のものを本来無自性と信じ、かつそう見るからである。本来無自性とは、永遠不変の、固定した「本質」などというものをもたないということである。山が山性によってがっしりと固定され、山以外の何ものでもなく、また何ものでもあり得ないという柔軟性を欠いた存在論は、哲学的にも前哲学的にも、山の本当のあるがままにたいして人を盲目にする、と仏教は考える。(井筒俊彦『意識と本質 精神的東洋を索めて』岩波書店〔岩波文庫〕/1991/p.360-361)
丸い水盤《陶盆》の口縁に、《鉄絵壺》同様、鋸歯状の切れ込みが飾られているのは、五行ないし五体を介して宇宙を象徴するためであろう。水が張られ、水鏡として、《陶盆》は天を水面(地)に映す。すなわち天地が反転するのである。何より、《波壺》の水平方向のギザギザが、本展の中心作品とも言える《鉄絵壺》の垂直方向のギザギザとなるのは、まさに「水平から垂直にねじまげる」デフォルマシオンである。ダイナミックで行動的な存在論、禅的思想の表われと解されるのである。