展覧会『Made in Shiga』を鑑賞しての備忘録
OMOTESANDO CROSSING PARKにて、2024年8月10日~26日。
滋賀に関わりを持つ作家によるグループ展。パヴィリオンでは、保良雄(守山市出身)のインスタレーション、小沢さかえ(大津市出身)の絵画、西條茜の陶器(甲賀市で作陶)と映像、上田勇児(信楽町〔現甲賀市〕出身)の焼き物、野田幸江(水口町〔現甲賀市〕出身)のインスタレーション、岩村遠の焼き物(甲賀市にアトリエ)、ミヤケマイ(大津市にアトリエ)の絵画、安枝知美(大津市在住)の絵画、梅津庸一(甲賀市に活動拠点)の焼き物・版画が紹介される。前庭には笹岡由梨子(大津市にアトリエ)のインスタレーション、都道沿い壁面に千賀健史(近江八幡市出身)のインスタレーションが、それぞれ設置される。
青山通りの表参道交差点に向かって鎮座するのが笹岡由梨子《LOVERS》。四角錐の台座に平たい円柱を載せ、円(底面)を金・銀・銅の円盤を鱗のように貼り付け、目・鼻・口を正方形のモニターに表示する映像で表わす。目は口で、眼球は舌。左側の眼球(舌)は青く、右側のはピンクである。鼻は耳を2つ並べたもの、口は目の周囲と瞼に歯や唇を描いたものてある。額には植物を植えた鉢が貼り付けられている。円柱の側面には銀の円盤を鱗のように貼り付けるとともに、向かって左側には黄と青の電球、右側には黄と緑の電球が明滅する。側面上部からは藁を巻いた1本ずつ腕が伸び、2つの円柱の間で合掌する。奇怪な立体作品と映像は、感覚器のズレが象徴する価値の顛倒という疫禍後の新常態と、変わらぬ愛とを訴える。歌が終わると、目・鼻・口の映像が(琵琶湖の?)湖岸の景観に切り替わる。歌詞から「鱗」は琵琶湖の湖面のメタファーであるとともにアマビエの鱗であることに思い至る。琵琶湖のアマビエ(?)は託宣の後に琵琶湖に姿を消す。
琵琶湖を明示する作品は、安枝知美の《表情と琵琶湖》で、湖水を背にした女性像が描かれている。長い頚を支柱に直角の顎を持つ顔が載せられている。肩までの輝く黄色い髪が長い頚のためにロングヘアとなる。曖昧な鼻、直線で表わされた口に対し、2つの大きな目は深い水のように表わされる。それは水深というより歴史の深さだろう。穏やかな表情に底知れぬ力を与える目である。
上田勇児の大壺は、緑を帯びた白でゴツゴツした表面を持つ。恰も湖底に沈んで貝や藻が附着した壺が引き上げられたような観である。むしろ、この大きな壺自体が、豊かな水を湛え、生命を育む琵琶湖なのだろう。
保良雄の《distilled #red》は、床にガラス板を敷いた上に球形に近い白い大理石の壺を置き、その上に垂らされた絹糸にカイガラムシから抽出した液体が垂らされるとともに、吊された電球が明滅するインスタレーション。染色液が糸を球となって流れ落ちる姿が観察できる。壺は雨と陽光とを受ける人の姿、あるいは琵琶湖であり地球である。
小沢さかえ《楽園への道》は疎らに樹木の立つ平原を歩く人々と動物の姿が描かれる。頭上には色取り取りの流体が混ざり合い浮かぶ。虹を生み出す素のようである。青い鳥よろしく、虹が象徴する楽園は常に頭上にある。
西條茜の《Phantom Body―蜜と泉―》は陶器の壺であるが、併せて展示されている映像作品から、穿たれた穴に息を吹き込むことで奏される楽器でもあるらしい。息が吹き込まれることで、器に魂が宿る。逆に、息が吹き込まれない器は幻影に過ぎないことにもなる。
野田幸江の《くり返し、音楽が流れるように》は、展示室の角に設けられた三角柱の祭壇で、内部と上部に石を積み、植物が飾られる。とりわけ穿たれたアーチ状の穴の内部に石などが積まれる様子は、窯を模しているものと見て間違いない。(酸化)焼成とは素地や釉薬の物質が酸素と結びつくことだ。やはり器と息とは結合しなくてはならない。焼き物は、酸素=息が吹き込まれることで生まれる命のメタファーであり、祭壇は生命の循環を寿ぐのである。
ミヤケマイの《カミヲハル》は掛け軸を3枚、前後に重ね、高さを違えて吊した作品。透過性のある麻を通して部分的に奥の画面を透かし見ることができる。平面作品(掛け軸)を別の平面作品(掛け軸)で重ねることで単体のときとは異なる表情を生み出すとともに、覆うことによる秘匿が奥へと視線を誘う。槇文彦の主張した「奥性」を体現するような作品である。
梅津庸一の陶器と版画は他の作家の陶器や絵画と、壁紙は笹岡由梨子のインスタレーションの「鱗」と呼応して、展示全体に一体感を醸成していた。