可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 河原茉美個展『裏か表か』

展覧会『河原茉美「裏か表か」』を鑑賞しての備忘録
MEDEL GALLERY SHUにて、2024年8月16日~8月28日。

人物の引き立て役の屏風や襖を主題にした作品、写真や映画の撮影現場を描いた作品など、背景や舞台裏を主題とした絵画を中心に構成される、河原茉美の個展。

鈴木春信など室内人物を描いた浮世絵に着想したという《描く人》の縦長の画面には、下端の6分の1ほどを水色と淡い紫の縞の蒲団が占める。画面の残りは蒲団の脇に立てられた屏風で、六曲であろうか、5つの扇が見える。屏風に描かれるのは、床に置いた画布に朱色の絵具を伸ばすヘレン・フランケンサーラー(Helen Frankenthaler)の姿である。腰を降ろし、左手で持った刷毛を引く画家の姿は、画面左端で切れて顔を含め右半身は見えない。左肩から伸ばした左脚の足までの線を斜辺とする三角形、あるいは「入」字、または刷毛の先端を針とするコンパスのようだ。歌舞伎における見得に通じよう(モノクロームの《Helen》においても、バケツの絵具を流すフランケンサーラーの姿は三角形に構成される。山、富嶽の見立てである)。フランケンサーラーの背後にも(屏風の屈曲により)屏風のように見える淡いの絵画がある。フランケンサーラー自身が制作している作品も含め、画中画にもまた絵画がある。入れ籠として蜿々と内部へと連なる。それを運動として表現すれば、村上三郎の「紙破り」のパフォーマンスを絵画化した《出たところから入る》になろう。それは一種の腑分けである。その実、腑分けの眼差しこそ浮世絵に象徴される爛熟期の江戸のパラダイムであった。

 (略)本草学、物産学の魅惑はつまりは〈絵〉にあったということができる。言葉のみによる分類学がはたして「博物学フィーバー」にまでいたれただろうかというなら、これははなはだ怪しいとぼくは思う。彩色技術の向上につれて、博物図譜は一種の美術書として堪能されていくことになったであろう。歌川国芳(1797-1861)にいたって、博物誌そのものがファインアートであること、〈目〉の快楽であることが、だれの目にも明らかとなることだろう。
 もっとも、絵を欠いた博物誌とでもいいうる不思議な文芸ジャンルがある。緻密な公娼を積みあげながら、全体的な構成は割にルーズな考証随筆という書き方がそれで、読み本、合巻作者がかたわら綴ったものに傑作が多い。とりわけ曲亭馬琴の『燕石雑誌』(1811)、柳亭種彦『還魂紙料』(1842)。緻密なジャンルのカテゴリーをゆるやかに出し抜いて、自由なスタイルながら、とくに馬琴がそうだが、細部が病的に肥大する。既成文献がフラクチャー(断片)としておびただしく引用され、ノースロップ・フライのいわゆるアナトミー(百科事典)形式のエクリチュールにの日本的対応物と呼ばれるべきアミーバー的ジャンルがここに猖獗した。エンド(目的/終点)を欠き、センター(中心)を欠いた事実と引用のみの奇文狂文が飽くこともなく蜿々と書き継がれる。
 断片化していく個、たえず微分化していく個が、対象を明晰に見ようとする人間のアナリシス(分解/分析)の欲望に媚びる。それが物産会のディスプレー、それをイコン化した博物図譜、そしてそれを言葉に置き換えた考証随筆といった、江戸中後期の不思議な文化相流行の原因ではあるまいか。
 (略)
 いま、それをこうして個の微分化という文化相にそって考えるのは、(略)もっと単純に見ればそれは要するに〈見る〉文化、華やかなもの、偏奇なものをとにかくこの目で見たいという欲望の直截な所在を語る。事実、黄の朝顔を生んだ民衆は、同時に視のラディカリズムの極を味わいつくしていた族であったように見える。彼らにこそ消費されることをめざして浮世絵という絵画形式は成立した。巷に見世物は猖獗しえたのだ。そして歌舞伎という演劇も成立したのである。彼らは本の中にも〈絵〉を要求して、イラスト文化の未曾有の活況を誘い出すのみか、エクリチュール、文字的なるものが〈絵〉へと軟体化していくことさえ要求する。そのことが合巻の全ページにたえずうかがい知られるし、歌舞伎看板の勘亭流書法にいつも見られる。浮世絵は歌舞伎と融通して芝居絵、役者絵を生む。歌舞伎は歌舞伎で、それ自体が絵の連続体であることを、その「見得」を通じてむきだしにしてみせた。(略)18世紀末から19世紀初めにかけてヨーロッパは、ピクチャレスク美学に惑溺し、その線で各表現ジャンルが、世界の〈絵〉化、表象化をめがけて陰惨な融合を遂げたのであったが、寸分ちがわぬことが同時代江戸に起こっている。(高山宏『黒に染める 本朝ピクチャレスク事始め』ありな書房/1997/p.40-41)

アリス役のキャサリン・ボーモント(Kathryn Beaumont)がウサギ穴に落ちたシーンの撮影に基づく《落下して逆立ち》、アニメーション映画『白雪姫』(1937)で白雪姫が井戸で水を汲む場面を描いた《うたうひと》、手にしたカメラのファインダーを覗くデイヴィッド・ホックニー(David Hockney)を捉えた《被写体(David)》。それらでは腑分けのメタファーとなる穴を覗く行為が絵画化されている。そして、真っ直ぐに伸びる農道の背景幕を前にツインテールのセーラー服姿の女性が佇立する撮影現場を描く《Blue back(behind the scenes)》こそ、森村泰昌よろしく絵画作品を腑分けする作家の自画像なのである。

 世界を〈絵〉にして見る。とは、流れるものを断ち切って断面において見るテクネーの謂である。芝居絵は、歌舞伎の動態を文字どおり〈絵〉として静態化させる。歌舞伎は、その絢爛たる背景、そして自ら静態化する見得の瞬間を通して〈絵〉の側面に媚びていったとも見える。浮世絵は芝居絵のみではなかった。役者絵と美人絵。喜多川歌麿が19世紀初めにかけて意識化してみせたように、それは観相術のアートなのである。スイス人神秘家ラファーター(1741-1801の『観想学断片』は1775年ドイツで公刊され、パリで1806年から何年かかがりで出ている。1806年、それは歌麿の没年。このあたりの時代的符合は偶然なのだろうか。19世紀ドーミエやグランヴィルのカリカチュアがラファーターの奇著から出発していることを、ジュディス・ウェクスラーの名著『人間喜劇』で確認したあとで、『北斎漫画』や歌麿を見、その他江戸中後期に流行したくさぐさの戯画、漫画を見て、ぼくは18世紀末から約半世紀に起きた洋の東西の文化史のパラレリズムに、あらためて思いをいたさずにはいられないのだ。一言でいえば、同時代、洋の東西で人間のタイポロジー(類型学)が成立した。こと人間を見る時には、江戸人の目はどんどん類型化してく。彼らの目がものに向けられたときの病的な微分化とは裏腹に、というべきかもしれない。
 とまれ、アモーファス(不定形)なものがまずフォルムを、類型を自らに招き寄せるその衝迫にそうものであるかのように、爆発的に人間の類型学が成立した。人の顔を十相、百相と集める絵の流行にそれを見ることができる。それは自然へも向けられていく眼差しである。浮世絵は名所絵をもおびただしく生みだしたのである。東海道そして江戸という名の空間は、どんどん〈絵〉化されて、名所絵の集積体のような観を呈するようにある。いわば自然の観相術ともいうべき類型化がどんどんつくりあげられていった。どういうところからどういう具合に自然を見ればよいのか、を名所絵や道中絵が人々に教えていった。ヨーロッパ18世紀が隆盛させた風景画に起きたのとまったく同じ〈風景〉の問題が正確にここでも起きている。自然の人工的シミュラークルによる、自然の〈絵〉化。東海道五十三次は、道中画の連続体と化し、江戸は名所絵のギャラリー(画廊)という観を呈した。
 起きている問題はいつもながらの、形式への耽溺である。本来的に、土地と結びつくことのなかった江戸人たちには、〈実体〉的に彼らの実存を充填してくれるものはない。超越的なシニフィエの非在、利いたふうなことをいえば、そういう江戸人たちの原状況から、何らかの超越性を帯びた〈実体〉的アートが成立するわけはなかった。江戸のアートとテクネーは、歌舞伎の隈取りのように、馬琴の勧善懲悪キアロスクーロのように、毒々しいまでにフォルムをくっきりと浮かびあがらせようとするフォルマリズムに、その真骨頂を見る。時間の中にどろどろと溶解して苦ことの恐怖が、時間の停止した刹那に自立するフォルムへの偏愛を生む。つまり〈絵〉としてみることへ、の。浮世絵は、その類型化されたフォルムを介して、人と自然を輪郭へ、シニフィアンへと非実体化する、極度にフォルマリズム化された画法であった。実存の無根拠と、それゆえ不可避の時間性というものへの拒否が、ピクチャレスクとフォルマリズムがつくりだす〈静止〉の夢を生んだ。その点では、浮世絵と歌舞伎の合体したピクチャレスク世界と、先から述べている博物誌におそらく何の径庭もない。明晰な〈形〉への渇望。微分化は、このフォルマリズムの中の、あるいはその先にあるはずの、視の贅沢である、とそんなふうにも見える。徹頭徹尾〈形〉。型と芸は自己目的的に洗煉され、またそれぞれの表現媒体が己れのひたすらに形式にしかすぎないありようをリフレクシヴに見つめるメタ・フィクショナルな意識を抱え、見立てや引用、パロディやコラージュといった〈ポップ〉な技法を開発していった。それを支えた人々は、おのがじしおびただしい数の雅号のはざまに自らのアイデンティティの無さを仮託し、居所を変え、職業をマルチ化しつつ、ひたすらノマディックな漂遊状態を身振りしている。彼らの不定形の実存が、それを囲繞するかのようにくっきりとしたフォルムを自らに招き寄せる。「いき(粋/意気)」だの「通」だのという美的イデアール(理想)を、各人が自らの無を囲うための器として引き寄せた。江戸っ子たちは自らの生をさせ美学のための素材として投企した、とさえ見える。というよりもすべてを〈形〉として、目に見えるものとしてそこに固定してみたいという江戸人の抜きさしならないフォルム志向そのものが、そこに不可避的に招き寄せてしまう魔としての静態と硬ばりに、自ら穴を穿つものとして考えだしたのが「通」であり「いき」であったのかもしれない――そういう硬直したものに文字通り「穴」をあける技術としての「穿ち」という美的コンセプトも江戸人好みの生と表現の戦略のひとつであったはずだろう。「通りもの」になることが江戸人の理想であった。硬化した社会マッスに穴を穿ち、行き、通るのだ。「通」にしろ「いき」にしろ江戸人のフォルム志向との関連で見、そしてフォルマリズムのいきつく危険に対する彼ら自身の認識というところから説かれるのでなければならないだろう。(高山宏『黒に染める 本朝ピクチャレスク事始め』ありな書房/1997/p.41-46)。

フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(Federico García Lorca)の旧宅で撮影されたギルバート&ジョージ(Gilbert and George)がベッドに横たわる写真に基づいた《Gilbert and George》は、アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna)の《死せるキリスト(Cristo morto)》を連想させる死の図像である。そこでは「死」はキリストの単数からギルバート&ジョージの複数へと増殖している。死は静止であり、絵画であり、フォルマリズムの象徴と看做すことができる。作家がギルバート&ジョージの身体を囲うベッドの柵、とりわけフット側の柵を大きく描き出していることからもフォルム志向は明らかだ。静止した絵画、フォルマリズムに動きを与えるため、作家が「死体」たる絵画に穴を穿つのは、絵画の腑分けであるのみではなく、表から裏へのバイパス手術を施すためなのだ。ルーチョ・フォンタナ(Lucio Fontana)のように物理的に画面を切開するのではなく、観念的な「紙破り」のパフォーマンスによって。