展覧会『松井えり菜個展「アストラル・ドリーマー」』を鑑賞しての備忘録
ANOMALYにて、2024年7月20日~9月7日。
空想の世界を優雅に漂いながらも、いとも容易く現実に引き摺り戻されてしまう自らの悲哀を、ユーモアたっぷりに表現する絵画などで構成される、松井えり菜の個展。多様な角度からの描写やイメージの歪みは作家の豊かな想像力であるとともに、ファインダーを覗く必要がないカメラで撮影した画像が当然に加工される時代を反映するものでもあろう。
《Air heir》(333mm×242mm)は洋館の一室。カーテンの開かれた窓を背に、画面下部に作家の姿(顔)があり、顔の上には宝石の輝く王冠が空想の王の腕で掲げられている(あるいは王冠が宙空に浮いている)。塗り残された窓が目映い光となって室内に射し込む。窓に背を向けて立つ作家は蔭になってしまうが、それは作家に光が当たっているからである。ディズニー映画のオープニング映像では、リー・ハーライン(Leigh Harline)の「星に願いを(When You Wish upon a Star)」にのせてシンデレラ城に花火が打ち上がる。それを見る度、娘をプリンセスのように見詰める父親の姿が想像されてならない。《Air heir》にも、そんな作家の想像力が見える。想像上の王の存在が娘たる作家に戴冠するのだ。因みにネッド・ワシントン(Ned Washington)による「星に願いを」の歌詞は、"When you wish upon a star / Makes no difference who you are / Anything your heart desires / Will come to you"。星に願いをかけるとき、誰であろうと関係なく、心からの望みならいつか叶う。
ディズニー映画のオープニング映像に近いイメージは、セーヌ川沿いのチュイルリー公園越しにエッフェル塔を望む景観を描く《犬とオオカミの時間》(200mm×400mm)である。紫色の空に浮ぶ雲は夕陽に照らされて輝き、エッフェル塔やオルセー美術館などの灯りが点り、車が光の流れとなっている。とりわけ車列の作る光の渦はフィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)の絵画を連想させる。「犬とオオカミの時間」とは黄昏を表わすフランス語"entre chien et loup"に因む。狼の訪れに備えて犬を放つ時間であり、犬と狼との区別が付かなくなる「誰そ彼」時でもある。昼と夜の境目であり、現実と空想との境目でもあろう。映画『ミッドナイト・イン・パリ(Midnight in Paris)』(2011)にも通じる世界だ。
ある意味人生の黄昏を描いていると言えるのは、《深淵を覗く時、深淵はまたこちらを覗いているのだpetit》(530mm×655mm)だ。メトロの窓際に坐る作家の顔を描いた作品で、窓に映った自らの姿に自己イメージと現実の姿とのギャップを思い知らされたという体験に基づくという。フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche)の『善悪の彼岸(Jenseits von Gut und Böse)』の一節をタイトルとしている。地下鉄と深淵とが結び付く。もっとも、見詰め返すと見詰め返されるのは鏡像的であり、そこにこそ作者は反応しているのではなかろうか。実際、ニーチェの言葉は「怪物と戦う者はその過程で自ら怪物とならぬよう注意せよ。(Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, daß er nicht dabei zum Ungeheuer wird.)」に続く部分であり、そこにも反転と同化が示されるのだ。だらこそ、「星に願いを」かけるべきなのだ。イメージを追う者はイメージ通りの者になれる。正しく「アストラル・ドリーマー」である。
それでも、腰をほっそり見せようと加工して背景が歪んでしまった《プリンセスツイスター》(1620mm×1300mm)に示されるとおり、作家は理想を追うと現実が歪むという冷徹な自己認識を作動させてしまう。「アストラル・ドリーマー」に徹しきれない。その人間臭さこそ作家の作品の持ち味である。