花村萬月『花折』〔集英社文庫は-18-11〕集英社(2021)を読了しての備忘録
私は逆子だった。
幼いころ母と風呂に入っていると、濛々と湯気が立ち籠める洗い場で、ぐいと引きよせられて必ず囁かれた。
「あんたは逆子やったから。ほら、見てみ。ここ。この傷。ちゃんと見いや。見飽きた言わさへんで。あんたはここから出てきたんやから」
母は人差し指で下腹の傷を示す。薄墨を刷いたかの細い眉の淡さと裏腹に、思いのほか密な漆黒の絹糸の生え際ぎりぎりに沿うかたちで残されたケロイドを、私のちいさな手をとってなぞらせる。おなかのここがぱっくり割れて私はでてきたのか――と息を詰める。(花村萬月『花折』集英社〔集英社文庫〕/2021/p.5)
鮎子は3歳半で円を描く才能を藝大油画出身の母に見出され、母より20ほど年長で日本画の大家である父から、兄の哲や姉の維を差し置いて、絵の手解きを受けた。画家に学歴は不要という父を母が取り成して岩倉の私立高校に進学した鮎子は絵筆を握らなくなる。それでも岡崎にある美術予備校に通い、藝大油画に入学した。東山の実家を出て、取手キャンパスの近くで一人暮らしを始めた鮎子は、大学生活に慣れた梅雨入り頃、大学の裏山で勝手に家を建てて暮らすホームレス然とした男に出遭う。ベニテングダケの鍋を食えと誘われ男の家に足を踏み入れると、生活の足しに量産している藻刈舟の掛け軸、次いで3、4年描いているという利根川をモティーフとしたM15号の油絵に目を奪われた。鮎子はイボテンと名乗る男に身体を触らせて欲しいと哀願される。鼻筋だけと言いながらイボテンは鮎子の唇や前歯、舌先へと指を這わせた。
寝ても覚めても四六時中、性しかないという日々の連続に内心は途方に暮れ始めていたが、夏休みになれば帰省できる、帰省すれば絵が描けると自分の言い聞かせて、イボテンさんとの日々の耐えていた。これで苦痛の芯に隠されていた予兆が現実に私の軀と心に立ちあらわれて、
それこそあられもない快楽に身悶えするようになってしまえば、性の交わりがつらいという奇妙な煩悶から逃れられたのだろうが、イボテンさんは初めのころのように愛撫をしてくれるわけでもなく、私に対する気配りは一切ない。私の軀が乾いていようがお構いなしで一直線に押し入ってくるばかりだ。
イボテンさんは身ぎれいになるに従って、よさが剥がれ落ちていった。汚れが消えるのにあわせて安っぽい不穏ばかりがその肌に滲みだし、こびりついていく。
私はほんとうに雨の降りしきる取手キャンパス裏山の手作りの家で群青色の寝袋に横たわって抱かれ、そしてスーパーカブの荷台に乗せられてイボテンさんの背にしがみついて小文間の集落に立ち籠める夜のなかを走り抜けたのだろうか。初めての夜の、あの不思議な輝きといまだかつて感じたことのなかった充実は幻想だったのだろうか。そんな疑念を胸に、その日3度目の交わりに耐え、西日の射し込む境目の光と影に断ち割られて、イボテンさんの視線を避けるようにして軀の後始末をし、小声で訊いた。
「夏休みは帰省するけれど、イボテンさんはどうします?」
返事のかわりに、殴られた。
かっ、と乾いた音が頭の中で響き、それを追って太陽を直視したときに似た純白の光が爆ぜた。激した父に、頬を平手で叩かれたことはある。そのときも瞬間、真っ白な光輝が拡がったが、これは桁違いだ。私の左目で核爆発が起こった。(花村萬月『花折』集英社〔集英社文庫〕/2021/p.94-95)
イボテンに性の技巧を身に付けさせられたのは、父に画技を仕込まれたことのアナロジーである。鮎子がイボテンから殴られるのも、イボテンの影響により、言葉のみに支配された観念的な鮎子が体験にも根差した画家へと切り替わる予兆である。
夏休みに帰省した鮎子は、実家に寄寓していた作家の我謝の取材に付き合い花折峠に向かう。三橋節子が同地に纏わる説話をもとに《花折峠》を描いたと我謝から説明を受け、思い出す。執筆のため帰郷する我謝に付いて鮎子は沖縄に滞在し、台風を経験した。実家に戻ると父は鮎子の作品を評価した。鮎子が新学期に取手に戻ると、イボテンが家で首を吊って亡くなったと知る。家に侵入してイボテンが描いた鮎子に衝撃を受けた鮎子は、衝動的にその絵を自宅に持ち帰った。
イボテンは利根川の絵の上に鮎子を描いていた。イボテンの絵は、妬んだ女に増水した川に突き落とされ生還した娘を描いた三橋節子《花折峠》に通じる。母の嫉妬、イボテンや我謝の洗礼を受け、画家として誕生≒再生する。
三橋節子《花折峠》には娘が頭を下に川を流れる頭位的であり、経膣分娩的であるが、水が引いていたことや花が折れていたことは骨盤位的であり、帝王切開的である。すなわち、逆子のメタファーと解釈できないことはない。
鮎子は逆子の当時に思いを馳せると同時に、老いさらばえた自らの姿を幻視する。キャンヴァスは作品を生み出す子宮であるとともに、時間を遡ることも下ることも融通無碍に可能な多元宇宙でもある。