展覧会 磯谷博史個展『Ginza Curator’s Room #009 形が影に従い、音が響に応じる』を鑑賞しての備忘録
思文閣銀座にて、2024年9月2日~14日。
德山拓一のキュレーションにより、磯谷博史が思文閣所蔵の小早川秋声・竹内栖鳳・田中一村の絵画や鈴木治の陶器を参照して制作した作品を展観。展覧会タイトル「形が影に従い、音が響に応じる」は、仏教において仏や菩薩が衆生に功徳を施す「影響(ようごう)」のこと。但し、先人の作品を作家が自作に取り込む一方的な関係ではなく、自作によって先人の作品に変化を与えることをも企図されているという。
磯谷博史《影響を泳ぐ》(1636mm×1066mm)は、小雨に混じり桜の花びらが散り、桜の花弁が覆う水面に波紋が浮ぶ小早川秋声《細雨蕭々》(1320mm×500mm)をモティーフとした作品。水面に上がる亀の影の周囲を撮影して拡大し、垂直の雨の線を、右上の角から左下の角の垂直線と平行になるように配する(隣に飾られた田中一村《白梅にジョウビタキ》の枝と線対称ともなる)。原画の淡い青緑や緑を中心とした画面は、赤味を帯びた褐色のモノトーンに変換される一方、額の上下左右に桜花の薄い桃色や亀の池のくすんだ緑を配することで《細雨蕭々》の色味も残されている。画面右上の4分の1程度を原画はない桜の花が影として配され、亀が桜花を求めて浮上したかの観を呈する。ゆったりとした動きを象徴する亀さえも桜を見ようと急く。『伊勢物語』の「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」が想起される。のみならず、水面に頭を僅かに覗かせた亀は描かれ、桜花は絵画に映り込んだシルエットに過ぎない。亀が決して桜花に届くことはない点は「アキレスと亀」の譬えに通じよう。亀を人、桜をイデアと見ることもできそうだ。先の歌を受けるのが「散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき」である。亀は万年と寿いだところで、光陰矢の如しなのだ。
鈴木治《重い雲》(108mm×23mm×68mm)は、楕円の下を直線でカットして雲を表し、下端に三峯の山が浮き彫りにされた、赤茶色の焼き物である。山を包み込む雲は鶴岡政男《重い手》よろしく山にのし掛かっているのだろう。映画『天気の子』(2019)では雲の形で大量の水が空に浮んでいることが描かれたことが想起される。磯谷博史の陶板「雲の影」シリーズには、鈴木治《重い雲》の三峯などがエンボスで表されるのが印象的である。《重い雲》で凸であった三峯は、陶板では凹として姿を現わす。三峯の実体は存在するのか。ならば《重い雲》の雲は何処に? 陶板の表面に不可視で覆っているのであろうか。存在や実体を巡る問いを空蝉に突き付けるのである。
磯谷博史《前進》(1636mm×1066mm)は、竹内栖鳳《わかき家鴨》(620mm×720mm)に描かれた3羽の家鴨のうちの1羽を足を中心に切り取ったセピア調の写真作品である。原画にはない花の影が重ねられている。《影響を泳ぐ》でも亀の周囲をトリミングしていたが、家鴨の足など体の一部分だけをクローズアップされているために、細部に対する執着が浮び上がる。江戸川乱歩「押絵と旅する男」で遠眼鏡で絵を覗き込む主人公の兄の姿に重なる。そのような視覚的欲望が科学・技術を発展させ社会を「前進」させたとも言えよう。もっとも、「押絵と旅する男」の主人公の兄のように、イメージに囚われてしまっているのでもある。