映画『ヒットマン』を鑑賞しての備忘録
2023年製作のアメリカ映画。
115分。
監督は、リチャード・リンクレイター(Richard Linklater)。
原作は、スキップ・ホランズワース(Skip Hollandsworth)の"Texas Monthly"誌掲載記事"Hit Man"。
脚本は、リチャード・リンクレイター(Richard Linklater)とグレン・パウエル(Glen Powell)。
撮影は、シェーン・F・ケリー(Shane F. Kelly)。
美術は、ブルース・カーティス(Bruce Curtis)。
衣装は、ジュリアナ・ホフパワー(Juliana Hoffpauir)。
編集は、サンドラ・エイデアー(Sandra Adair)。
音楽は、グレアム・レイノルズ(Graham Reynolds)。
原題は、"Hit Man"。
ニューオーリンズ大学の教室。心理学・哲学教授のゲイリー・ジョンソン(Glen Powell)が教壇に立ち、学生に語りかける。ニーチェは人生最大の成果と喜びを得る秘訣は、危険を冒して生きることにあると言っている。ヴェスビオ山に都市を建設せよ! 未知の海に漕ぎ出せ! ニーチェは何を訴えているんだろう? 誰か? シルビア(Jordan Joseph)が指される。リスクを冒してでもぬるま湯から抜け出さなければならない、人生は短いので。情熱的に自分の流儀を貫けと。君の見解には1語で答えよう。その、通り、だ! 学生たちが失笑する。シヴィックに乗る男の癖にとゲイリーを揶揄する学生もいる。
ゲイリーがシヴィックで帰宅する。鳥の餌を用意し、観葉植物に水を遣り、飼い猫のイドとエゴに缶詰の餌を与える。キッチンの小さなテーブルに向かい1人質素な食事を取る。
私の生活は地味に見えるでしょう。郊外で鳥に餌を与え猫と暮らす独身男。それでも精神的に充たされていました。幸せと言わずとも満足はしていたのです。数年にわたりニューオーリンズ大学で心理学と哲学の講義を受け持って来ました。哲学の難題に生きることを楽しんでいましたが、電子機器や数字に強く、潜入捜査の手伝いで収入を補っていました。ニューオーリンズ警察署で所定の訓練を受けるとすぐに、主に嘱託殺人事件で盗聴を担当しました。気付いたら人生が思ってもみなかった方に転がっていたのです。
ヴェトナム料理店の近くに停まった配管工のヴァン。ジャスパー(Austin Amelio)はクレイグ(Mike Markoff)に気を付けた方がいい。フィル(Sanjay Rao)が盗聴の準備をしているゲイリーに語る。クローデット(Retta)が現われ、ジャスパーが少年に対する暴行で停職になったと伝えた。昇格よ。昇格って? 殺し屋に。予定を組み替えよう。彼は現われてない。殺し屋は最初の面会を断ったりしないものよ。殺し屋なんていない。たくさん見てきたろ。できるさ。君がやればいい。お断りだよ、以前試して殺されかけたんだから。二の舞は御免蒙るよ。私は民間人なんだ。ヤバくなったら助けるさ。時間が無いの。ジャスパーから通信機を受け取って。この資料をチェックしとけ、ビリー。ビリー? お前さんの偽名だよ。
ゲイリーはヴァンを降りるとジャスパーの車の助手席に乗り込む。ジャスパーが愚痴る。キャンセルカルチャーなんてくだらねえ。状況を踏まえて問題なしと納得した奴らが2対1で多かった。有給で120日間の停職だとよ。釣りにでも行くさ。フロリダの海へな。で、何でお前さんが俺の車に? クローデットが通信機を取って来て欲しいと。俺の代わりは? お前が? もっとふさわしい候補がいると思うんだけどね。お前さんは表情が読めないし、印象が薄いからな。盗聴してきたから何を言うべきかは分かっているんだけど、何か秘訣は? 要は信じこませりゃいいんだ。連中はお前さんを殺人犯に仕立てたいんだ。殺人犯になりゃいい。弱みを見せるな。決定的な言葉が出て来るまで攻め続けろ。分かったよ。まあ、気軽にな。お前さんの仕事は連中を刑務所送りにすることだ。ジャスパーの電話が鳴る。クローデットからクレイグが現われたとの連絡だった。第一印象が大事だ。
短パンを履いていたゲイリーがフィルとパンツを交換し、眼鏡を外す。自分を殺し屋だと言い聞かせながら、クレイグの待つ店へ向かう。
殺し屋のビリーに成りきったゲイリーがクレイグに告げる。いいか、全ては信頼に基づかなきゃならねえ。そりゃ当然だ。どれくらい殺ってんだ? お前に関係あるか? お前は仕事で俺を呼んだ。お前は俺を知らないし、俺もお前を知らない。これっきりの関係だ。分かるな? 分かったよ。お前は俺を値踏みしてるんだろう。懸案の処理にふさわしい奴か。俺もそうだ。嘘を並べ立てる奴か。大口を叩く奴か。後悔して自白する奴か。追い詰められてアイツだと俺を指差す奴か。ありえねえ。もう答えは出てんだよ。じゃあ聞かせてくれ。俺は7勤7休で、火曜に交代だ。俺の居場所は記録に残る。誰も俺が殺ったとは思わねえだろ? クレイグはメキシコ湾で石油掘ってたんだからよってな。どうよ? いい計画だ。木曜か金曜だな。それがいい。世話を頼むぜ。何が言いたい? 分かるだろ、金輪際おさらばしてもらわねえと。葬式は? 葬式なんていらねえだろ。葬式はなし? おいおい話は通じてんだよな? 雲行きが怪しくなり、クロードが慌てる。
ニューオーリンズ大学の心理学・哲学教授のゲイリー・ジョンソン(Glen Powell)は、ニーチェを引用して危険を冒してでも自分の生き方を貫けと学生たちを励ますが、学生たちからはゲイリーこそぬるま湯に漬かっていると思われている。実はゲイリーは、ニューオーリンズ警察で嘱託殺人の囮捜査に協力していた。ハンク警部(Gralen Bryant Banks)の指令を受け、クローデット(Retta)が現場の指揮を執り、殺し屋役のジャスパー(Austin Amelio)が依頼人と交渉する現場をフィル(Sanjay Rao)とゲイリーが録音・録画していた。ところが未成年者に暴行する動画が出回ったジャスパーに対し、囮捜査当日に120日間の停職処分が下ってしまう。クローデットは急遽ゲイリーを殺し屋に仕立て、クレイグ(Mike Markoff)との交渉に当たらせた。ゲイリーはクレイグの言質を取った上、着手金の受け取りに成功し、クレイグはお縄になる。ゲイリーは依頼人をプロファイリングして相手に相応しい役作りをして、被疑者の検挙に貢献する。ある日、「ロン」として役作りしたゲイリーの前に現われたマディソン(Adria Arjona)は想定より遙かに魅力的だった。マディソンは夫レイ(Evan Holtzman)から受ける過剰な束縛に窒息してしまうと「ロン」に愁訴する。心を打たれた「ロン」は殺害依頼の着手金で今すぐ家を出ろとマディソンに嗾けた。
(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)
心理学・哲学教授のゲイリーは、人生最大の成果と喜びを得る秘訣は危険を冒して生きることにあるとのニーチェの言葉を信奉しつつ、行動には移せないでいた。おそらくは飼い猫の名がフロイトの構造論に因んでイド(無意識)とエゴ(自我)と名付けられている通り、ゲイリー自身がスーパーエゴ(超自我)として自らのイドとエゴを押え付けているのだろう。ゲイリーがバードウォッチングの愛好家であることもイドとエゴの監視役であることを示唆する。
ゲイリーが従事するのは囮捜査であり、法廷では弁護士から、被告人の犯意を誘発したと激しく非難される憂き目に遭う。ゲイリーは警察官の職務の補助者であり、正義を遂行しただけだが、自らの正義、延いてはスーパーエゴに対する信頼が揺らいでしまうのだ。
スーパーエゴたるゲイリーを覆すのが、イドたるマディソンということになろう。
映画『ザリガニの鳴くところ(Where the Crawdads Sing)』(2022)(ディーリア・オーウェンズ(Delia Owens)の同名原作小説も素晴らしい)の舞台はノースカロライナ州の湿地・沼地であった。本作品の舞台はニューオーリンズであるが、所在するルイジアナ州はバイユー・カントリーであり、バイユーのイメージが底を流れていよう。『ザリガニの鳴くところ』の主人公カイアが湿地・沼地であるように、マディソンはバイユーである。