展覧会『空の発見』を鑑賞しての備忘録
渋谷区立松濤美術館にて、2024年9月14日~11月10日。
かつて空はモティーフを表すための余白に過ぎなかった。西洋絵画の将来により、眼に映る全てを捉える意識が芽生え、ベロ藍の普及と相俟って現実の空が描かれるようになったという。もっとも西洋においても宗教画や歴史画を上位とするヒエラルキーの下、空も含めた風景は背景に過ぎず、必ずしも写実的に描かれた訳ではなかった。当然に描かれてきたと思われた空(そら)が実は空(から)だったという指摘に目から鱗が落ちる企画。
名所絵や水墨画と、司馬江漢に代表される洋風画など西洋絵画の影響を受けた作品とを対比する第1章「日本美術に空はあったのか?―青空の輸入」、ジョン・コンスタブル(John Constable)やウィリアム・ターナー(William Turner)ら風景を主題にした画家達を取り上げる第2章「開いた窓から空を見る―西洋美術における空の表現」、洋画の黎明期に活躍した高橋由一や五姓田義松、英国に留学し雲を描いた武内鶴之助、高村光太郎の「緑色の太陽」に影響を受けた萬鉄五郎、泥絵に愛着を持っていた岸田劉生を始め近代日本の作家の空を見比べる第3章「近代日本にはさまざまな空が広がる」、夜空と天体の描写に着目して浮世絵から現代絵画までを通覧する第4章「宇宙への意識、夜空を見上げる」、天災や戦災のために灰燼に帰した都市における空をモティーフとした作品の並ぶ第5章「カタストロフィーと空の発見」、現代作家の空をモティーフとした作品で構成される第6章「私たちはこの空間に何を見るのか?」の6章から成る。
【第1章:日本美術に空はあったのか?―青空の輸入】
松川龍椿《京都名所図屏風》[01]は、洛中洛外図の流れを汲むが、有名な寺社以外が文字通り金雲に埋め尽くされる。狩野探幽《富士山図》[04]の没骨法で描かれる富士の周囲にあるのは図に対する地である。春木南溟《富士曼荼羅図》[05]の富士の背景は日月が並ぶ天の象徴である。絵師は描くべきモティーフを選択するのであり、眼球に映り込む景観をそのまま写し取るという発想はない。それに対し、洋風画法を学んだ司馬江漢のパノラマ的絵画《犬のいる風景図》[09]では低い水平線の上に淡い青空を背景に白い雲が棚引く。司馬江漢は言わばカメラとなって風景を切り取っているようである。もっとも、西洋絵画の影響を受けた浮世絵版画においても、北尾政美《浮絵東都 日本橋小田原町魚市之図》[16]の「すやり霞」的な雲や歌川広重《東海道五拾三次之内日本橋》[17]の一文字ぼかしによる空のように、空を記号的に描写する手法は残る。
【第2章:開いた窓から空を見る―西洋美術における空の表現】
ヤン・ボト(Jan Both)が背景を担当した《ニンフのいる風景》[21]には湧き立つ雲が描かれるが、神話の舞台に相応しい理想的景観――一種の書割――であって現実そのままを描写したものではないという。それに対し、ジョン・コンスタブル(John Constable)は町を見下ろす丘の鬱蒼とした木々と町を覆う雲とを描いたに《デダムの谷》[22]など、故郷の「なんでもない風景」を主題化して見せた。また『イングランドの風景』シリーズの雲や雲間から漏れる陽差しといった夏の景観を描いた作品群[25-27]からは刻々と変化する空模様に対する強い関心が窺える。
【第3章:近代日本にはさまざまな空が広がる】
岸田劉生は《窓外夏景》[54]や《路傍初夏》[56]において江戸の土産物であった泥絵[13]を連想させるのっぺりとした青空を描いている。
横山大観が試み、「朦朧体」と揶揄された画法は、輪郭線に頼らず色面により描写するものであった。《峠の夕》[36]に見られる通り、余白=空(くう)は無くなり、夕陽に染まり雲が浮ぶ空(そら)が拡がることになった。
武内鶴之助はイギリスに留学し、カメラのような眼差しで空模様を切り取った《雲》[41, 43-46]を制作した。
萬鉄五郎は《雲のある自画像》[52]において頭部の左右に緑と赤の雲を浮かべ、《太陽の麦畑》[53]では恰も家並や麦畑に触手を伸ばすような太陽を描いている。高村光太郎の「緑色の太陽」に影響を受け、自然現象に自らを投影し、カメラ的な描写から離れている。米倉壽仁《早春》[62]におていは、割れた卵の殻の中で上演される舞台の書割として、鳥が舞い雲が流れる青空がある。
渡辺武《祈り》[61]の空に湧いた雲は人間の頭部や鳥の姿に変じたダブルイメージとして描かれている。現実世界と幻視した世界とが接続されている。
【第4章:宇宙への意識、夜空を見上げる】
葛飾北斎《『富嶽百景』浅草鳥越の不二図》[66]は幕府天文方の天体観測施設の簡天儀が富士を切り取るように配される。富士も天も信仰の対象であり、神と見なされる。その一例が歌川国芳《高祖御一代略図 九月十三夜依智星降》[67]である。そこに科学の眼差しが向け荒れる。遙拝から科学的調査へ。世界観の転回を象徴する球体である。
歌川広重《金沢八景 瀬戸秋月》[70]は煌々と輝く満月に照らし出されているために景勝地は昼間のように明るい。建物も舟もはっきり描き出されている。それが洋画家のカメラ的な眼差しが向けられると、高橋由一《中洲月夜の図》[74]のように、真っ暗闇の中に満月だけが輝く――雲が出ているせいでもあるが――ことになる。前者は後者に比べれば、ほとんど昼のようである。なぜなら描きたいものを描くのであって、闇を描こうとの意識はないからである。満月があれば夜に決まっているのだ。
【第5章:カタストロフィーと空の発見】
かつて盛り場・浅草に屹立した凌雲閣はタワーの先駆けであった。今も次々と建てられる高層ビル同様、ファルスの形態を取るのは、露骨な欲望の象徴としか思えない。その凌雲閣は関東大震災で半壊した。関東大震災は、地震そのものより火災による被害が甚大であった。鹿子木孟郎《大正12年9月1日》[81]は未だ火災が続き焼け野原の空に立ち籠める煙を描く。池田遙邨《災禍の跡》[82]は焼け出された襤褸の人々を描き出す。密集していた建物が灰燼に帰し、三日月が沈む、夕闇の迫る空だけが拡がる。
空を取り戻すことなく、再びファルスをおっ立てた結果、戦争の惨禍を招いた。香月泰男は軍事演習で匍匐をやらされた際、蟻の巣穴を見つけて、蟻の姿に自らを重ねたという。蟻となって巣穴から覗いた空が《青の太陽》[88]である。ファルスとは対極的な「世界の起源(L'Origine du monde)」からの眼差しである。《災禍の跡》の眼差しと通底する。
【第6章:私たちはこの空間に何を見るのか?】
美術館の地下にある展示室で、小林正人《絵画=空》[94]の青空を見上げる。そのとき、鑑賞者は、香月泰男の眼差しを共有する。こんな素敵な空を取り戻すべきだと思わずにいられない。