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芸術鑑賞の備忘録

映画『チャイコフスキーの妻』

映画『チャイコフスキーの妻』を鑑賞しての備忘録
2022年製作ロシア・フランス・スイス合作映画。
143分。
監督・脚本は、キリル・セレブレンニコフ(Кирилл Серебренников)。
撮影は、ウラジスラフ・オペリアンツ(Владислав Опельянц)
美術は、ウラジスラフ・オガイ(Владислав Огай,)。
衣装は、ドミトリー・アンドレーエフ(Дмитрий Андреев)。
編集は、ユーリ・カリフ(Юрий Карих)。
音楽は、ダニール・オルロフ(Даниил Орлов)。
原題は、"Жена Чайковского"。

 

19世紀末のロシア帝国においては、教会での結婚は皇帝か裁判所の許可が無ければ解消できず、女性は夫の旅券にしか記載がされず、投票の権利も認められていなかった。
1893年サンクトペテルブルク。葬儀屋のデスクでアントニーナ・チャイコフスカヤ(Алёна Михайлова)が店主(Пётр Айду)から確認される。花輪に樅の木、百合、リボン。黒地に銀色でいいですね? ええ。リボンには何と? …偉大な、いいえ、ただ愛する者へと。別の客がやって来る。簡素なのもやってくれるか? 少々お待ちを、立て込んでまして。若い店員が応対する。アントニーナが、崇拝していた妻よりと続けて記すように店主に求め、なおかつ一緒に葬儀に参列するよう頼む。アントニーナが財布から硬貨を取り出し、卓上に置く。
アントニーナが店主とともに馬車に揺られる。もっと厚手の方が良かったですか? 何も頼んでないわ。私もいるってことをみんなに教えてやるの。
葬儀が行われる建物の前に馬車を降りると、既に多くの人が列をなしていた。警官が霊柩車が来るからと馬車を立ち退かせる。店主とともにアントニーナが列の脇を抜けて葬儀場へと向かう。井戸水に消毒液を入れるために国中に医師が派遣されているなどと雑談しているのが聞こえてくる。アントニーナに頼まれ、店主が未亡人を通してくれと頼み、狭い階段を通り抜け、会場に入らせてもらう。音楽関係者らがところどころで立ち話をしていた。アントニーナは店主から花輪を受け取ると、司祭が祈りを捧げ、遺体に香油を塗っている場に1人で向かう。聖歌隊の歌が途切れると、突然安置されていたピョートル・チャイコフスキー(Один Байрон)が起き上がる。なぜあいつがここに? 誰が招いた? 不機嫌なピョートルがアントニーナに向かう。お前が憎たらしい。大嫌いなんだ。愛したことなんて1度もない。お前が結婚したがってただけだ。見ろ、こいつの思い通りになった。ピョートルが花輪を示す。私はいったいどんな狂気に駆られていたんだ? 陳腐な悲喜劇は何のためなんだ? ピョートルが再び横たわる。アントニーナが悲しみに顔を歪め、葬儀場を出る。雑沓の中で1人天を仰ぐ。
1872年、モスクワ。アントニーナの叔母エカテリーナ・アレクサンドロヴナの家で行われたパーティー。ピョートルが軽快に演奏するピアノに合わせてエカテリーナを始め参会者が踊る。アントニーナは皆の姿を遠巻きに眺めていた。演奏が終わると、ピョートルが法律学校を卒業したばかりの頃のエカテリーナとのエピソードを切り出す。エカテリーナが話を引き取り、ピョートルはお洒落をしているのに靴だけが汚れていて、しかも汚したがっていた、それを召使いに綺麗にさせると、いつか竹篦返しを食うことになると私に言い切った。衝撃的だった。それにエカテリーナが個人的に掃除したんだと皆に言いふらすつもりだとも言っていた。そんなことをするのは君の前でだけだよと、ピョートルがエカテリーナの手にキスをする。
その晩、アントニーナはエカテリーナに音楽院に入りたいのでピョートルを紹介して欲しいと頼む。エカテリーナは請け合ってすぐにピョートルにアントニーナを引き合わせる。もう帰るの、ピョートル? 今晩は有り難う。もう寝ることにするよ。姪のアントニーナ・ミリウコヴァよ。あなたの音楽院に入りたいんですって。お会いできて光栄です。音楽院ですか? 結婚した方がいい。ピョートルはすぐに立ち去る。
アントニーナは音楽院で学び始めた。

 

1893年サンクトペテルブルクアントニーナ・チャイコフスカヤ(Алёна Михайлова)がピョートル・チャイコフスキー(Один Байрон)の葬儀に向かう。ピョートルは猖獗を極めるコレラに罹患し、命を落としたのだ。遺体を前にしたアントニーナは激昂するピョートルの姿を幻視する。アントニーナはピョートルやその兄弟たちに嫌悪され、ろくに対面することも叶わなかった。
1872年、モスクワ。アントニーナは叔母のエカテリーナ・アレクサンドロヴナのパーティーでピョートルを知る。アントニーナは音楽院に通うことにするが、ピョートルの指導を受けることはできなかった。アントニーナは恋文を認めると教会で祈りを捧げてから投函する。祈りが天に通じたか、ピョートルはアントニーナの部屋を訪ねてくれた。抱き締めてキスしたいと結婚を迫るアントニーナに。ピョートルは自分の抱える問題を告げて翻意させようとするが、アントニーナの決意は揺るがない。ピョートルは立ち去るが、アントニーナは諦めず、再び恋文を認める。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

女性であるアントニーナは自ら音楽で身を立てることができない。音楽の天賦の才に恵まれたピョートルに身を捧げることで、自らの望みを叶えようとしたのだろう。同性愛者で母親以外の女性を忌避するピョートルは、同性愛を秘匿するために体裁を整えるのと経済的な問題から、熱狂的な求婚者アントニーナとの結婚を受け容れた。アントニーナはピョートルに夫婦関係を求めるが、ピョートルは妻に指1本触れようとしない。教え子など男性の愛人に溺れるピョートルから蔑ろにされるアントニーナは、それでもピョートルへの執着を断つことができず、それが却ってピョートルの嫌悪感を募らせる。遂にアントニーナはピョートルから離婚を突き付けられるに至る。
冒頭、安置された遺体のピョートルがアントニーナに激昂するシーンは、アントニーナとピョートルとの関係を端的に知らしめるだけでなく、史実をベースにした創作であることを示唆する。時間経過をシームレスに描き出す手法も同様に創作であることを訴えるものだろう。
ピョートルが妻となったアントニーナを父親に紹介しに行った帰り、アントニーナが身に付けていた赤いサンゴのネックレスが話題になる。それが本物のサンゴでないと聞いたピョートルは嫌う。アントニーナはサンゴを砕いたもので成型されているのだから半分は本物だと告げる。ピョートルはアントニーナとの結婚が偽装結婚に過ぎないと認識しているのに対し、アントニーナは教会によって認められた結婚であることには変わりないと理解していることが暗示される。
アントニーナの母オルガ(Наталья Павленкова)は父(オルガの夫)に捨てられた存在であり、アントニーナの妹リサ(Екатерина Ермишина)は母親に虐げられた存在である。ピョートルの妹サーシャ(Варвара Шмыкова)に至っては、子供たちとともに家庭に押し込められた鬱屈をクスリや酒によって紛らわしている。
アントニーナはピョートルやその友人たち、あるいはピョートルの弟モデスト(Филипп Авдеев)ら男性たちから疎んじられ、蔑まれるが、どんなことがあってもピョートルの妻としての立場を貫こうとする。
アントニーナは弁護士アレクサンダー・シュリコフ(Владимир Мишуков)の愛人となり、私生児を出産し、孤児院に出す。ピョートルとの想像の中の記念写真の撮影では、自ら腹を痛めながら捨てることになった子供たちが2人を取り巻く天使として登場するのが切ない。
アントニーナが手紙を綴るシーンなどは、フェルメールの絵画を連想させる。