展覧会『クリス・ヨハンソン「Navigation」』を鑑賞しての備忘録
NANZUKA UNDERGROUNDにて、2024年9月13日~10月13日。
陸の上であろうと海の上であろうと、意志ある限り道が続き、なおかつその道は時空をも超える。絵画を中心としたインスタレーションで構成される、クリス・ヨハンソン(Chris Johanson)の個展。
1階の展示空間に設置された合板製の衝立《Before, with intention for the moment, and then brought into waht world happen next》(1220mm×2440mm)には、高いビルの立つブロックと2階建ての商店が並ぶブロックの周囲を走る黒いアスファルトの道と、行者の姿が描かれ、ベニヤの車が貼り付けてある。塗り潰されたのっぺりした青空と車道、平面的に表された人物や街路樹、格子だけで表されたのっぽのビルなど、素朴な描写が印象的だ。画面内で歩道が奥の青空に向かって宙空に延びていくが、同様に、実査に画面外には白い支柱で支えられた黒い板で作られたカーブする道路が画面の右端に接するように設置されている。板を切り出して作られた水色の車が載り、運転するのは、(衝立の向かいの壁に赤い眼鏡をかけた横顔を描いた《The self》(482mm×634mm)から)作家と思しき眼鏡をかけた丸い頭の男だ。平面=画面から立体=空間へと何の衒いも無く接続されているのだ。
時空を融通無碍に往き来できる感覚を生んでいるのは、《The scales in my mind #9》(1600mm×2180mm)である。画面の中を歩き廻る4人の人物は、画面の上端地面のように歩き、あるいは画面の上端から下端へと移動する。にょろりと脚が伸びる"入"のような姿の人物に重力は作用しないかのようだ。
《The scales in my mind #1》(1420mm×1060mm)に人の姿はない。色取り取りの円弧のような花弁のような形が画面を埋め尽くし、時空が歪んだようなイメージだけが表されている。(2階に展示されている)《The scales in my mind #2》(1070mm×1360mm)では、画面の一部が人の身体のシルエットに変じている。《The scales in my mind #3》(1055mm×1455mm)では円弧ないし花弁が人間の頭部を持ち、蛇の体を持つ人物が画面を覆う。《The scales in my mind #4》(820mm×1370mm)には人々が歩き廻る様子が描かれ、鳥が飛ぶ。全ては一体的で転変する。
諸法――経験的世界において表層意識の対象となる一切事物――の実相は「空」であり、その空性は、理論的には、一応、因縁所生ということで説明される。原始仏教の縁起哲学につながる非常に歴史の長い考え方である。山は山の「本質」(自性)があって山というものとして実在するのではない。ただ限りなく錯綜する因と縁との結び合いによって、今ここにXが、たまたま山として現象しているだけだ、という。山であるXが実在するわけではない。従ってまた山であるXが川であるYと明確に区別されるのも、結局は「妄想分別」にすぎない。XとYとが別のものとして区別されるのは妄想分別であるとするならば、妄想を取り払ってしまいさえすれば、たちどころにXとYとの区別はなくなる。少くとも、なくなるはずだ。そしてXとYだけでなく、一切の存在者について、そこに働く我々の意識の妄想分別的、すなわち分節的機能を停止してしまえば、すべては、法蔵の言葉にもあったように、「唯一真如」に帰してしまうのである。(井筒俊彦『意識と本質――精神的東洋を索めて――』岩波書店〔岩波文庫〕/1991/p.153-154)
「The scales in my mind」シリーズは「唯一真如」に対する「妄想分別」であり、《Before, with intention for the moment, and then brought into waht world happen next》は、「妄想分別」を逃れ「唯一真如」に帰すことを期すものであると解することも可能ではなかろうか。
2階展示室には、《Before, with intention for the moment, and then brought into waht world happen next》と呼応するように、ボートを漕ぐ人を描いた《There》(810mm×1040mm)の水平線の外に青い水路を表す立体作品が設置され、ボートを漕ぐ人のブロンズ像が置かれている。また、波を表した立体作品とともに、パレット(荷役台)を並べて作った筏に帆が立てられている。
《Randoms with and without good fortune》(810mm×1040mm)には穏やかな波間に浮ぶボートに乗った二人の人物を描きつつ、画面右端では水面が直角に立ち上がり行く手に立ちはだかる。世界の変容を象徴するイメージである。
1階にも2階にも壁にとまり、あるいは天井から吊される蝶ないし蝿の姿がある。それらは胡蝶の夢を示唆するものではなかろうか。
郭象は、1つの区分された世界において他の世界を摑まえることはできない、と主張する。「まさにこれである時には、あれは知らない」からである。この原則は、荘周と胡蝶、夢と目覚め、そして死と生においても貫徹される。この主張は1つの世界に2つ(あるいは複数)の立場があり、それらが交換しあう様子を高見から眺めて、無差別だということではない。そうではなく、ここで構想されているのは、一方で、荘周が荘周として、蝶が蝶として、それぞれの区分された世界とその現在において、絶対的に自己充足的に存在し、他の立場に無関心でありながら、他方で、その性が変化し、他なるものに化し、その世界そのものが変容するという事態である。ここでは、「物化」は、1つの世界の中での事物の変化にとどまらず、この世界そのものもまた変化することでもある。
それを念頭に置くと、胡蝶の夢は、荘周が胡蝶という他なる物に変化したということ以上に、それまで予想だにしなかった、胡蝶としてわたしが存在する世界が現出し、その新たな世界をまるごと享受するという意味になる。それは、何が「真実在」なる「道」の高みに上り、万物の区別を無みする意味での「物化」という変化を楽しむということではない。
したがって、福永〔引用者補記:光司〕の言う「あらゆる境遇を自己に与えられた境遇として逞しく肯定してゆくところに、真に自由な人間の生活がある。絶対者とは、この一切肯定を自己の生活とする人間にほかならないのだ」という命題は、やや変形した形で理解されなければならない。つまり、人間の自由とは、与えられた境遇をだたひたすら「逞しく肯定してゆく」というよりも、今現在のあり方(ある1つの区別されたあり方)を絶対的に肯定することによってそのあり方から自由になり、新しい存在様式(これもまたやはり区別されたある1つのあり方でしかない)と新しい世界のあり方に逢着することにある。(中島隆博『荘子の哲学』講談社〔講談社学術文庫〕/2022/p.171-173)